石碑
Monument

都府楼跡は四王寺山と大野城址を背景にした要害の地にある。「大宰府」の中心である。地名は「太宰府」と表記されるが、「大宰の少弐」など、官職や役所をあらわす場合は「大宰府」となる。
日本書紀では、天智2年(663年)唐・新羅の連合軍に大敗した我が国が大陸からの侵攻に備え、博多の那ノ津にあった大宰の府をここに移した、とある。百済からの亡命者の指導により背後の四王寺山に大野城、 南面の基山に基肄城、さらには水城を築いた。天智天皇は667年に都そのものを大津に遷し、全土防衛の体制を作った。恐れを知ることが政治の基本であるとすれば、天智帝は明晰な政治家だったと思う。もちろん中臣鎌足が健在だったこともあるだろう。
礎石を枕にして空を眺めた学生の頃を思い出す。
筑前国主だった山上憶良がこの風景を詠んだ歌 「大野山霧立ちわたるわが嘆くおきその風に霧立ちわたる」(万葉集巻五 799)