田丸城



所在地       度会郡玉城町田丸字城郭
築城年代      延元元年(1336)
築城者       北畠親房
主要城主      北畠氏
城郭様式      平山城

田丸城は南北朝動乱の延元元年に後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北
畠親房・顕信父子が築城した。永禄三年(1560)稲狭間の戦いで勝利をおさめ
た織田信長は次々と近国を攻め、同十年八月には伊勢国司北畠氏への攻撃も開始し
た。永禄十二年(1569)信長の次男信雄は政略結婚により北畠氏の養子とな
り、大河内城を廃して田丸城に移った。
信雄は田丸城に大改造を加えて堅固な城に修築し、南伊勢を統一した。北西の高
地には本丸・二の丸・北の丸を造り、本丸には三層の天守閣を建て、外城田川の流
れを変えて城下町を取り囲む外堀に利用した。
しかし、五年後の天正八年、金奉行玄智が金を盗み焔硝蔵に放火したため、天守
閣をはじめほとんどが焼失し、松ケ島城に移ることとなった。
天正十二年(1584)蒲生氏郷が松ケ島城に入城すると妹婿の田丸直意が田丸
城にはいったが、氏郷の会津若松への移封により岩出城主牧村利貞の預りとなり、
利貞の父稲葉重通が城代となって城を預った。
慶長五年(1600)関ケ原の戦いにより重通の子稲葉道通が五万石で田丸城に
入ったが、元和元年(1615)紀通のとき摂津国中島に転封となり藤堂高虎の家
臣加納藤左衡り門が代官として入った。
元和五年(1619)徳川家康の十男頼宣が紀伊和歌山城主となると、津藩領で
あった田丸五万石は紀州領となり、頼宣は遠江久野城主であった久野宗成に一万

石を与え田丸城主として田丸領六万石を統括させ、以後八代続いて命じに至った。