いたずら
いたずらってものすごく幅広い言葉だと思います。
「膝かっくん」などは他愛も無いいたずらですが、新聞上では線路に置き石なんてのもいたずらに分類されます。
果ては「少女に」なんてのが付くいたずらもあります。
本来、線路に置き石や「少女に」なんてのは、「いたずら」ではなく「犯罪」と表記すべきです。
確かに辞書をひくと「他人に迷惑をかけるよくない振る舞い」「性的にみだらな振る舞いに及ぶ事」(言泉)
とあるので、これらの犯罪行為も「いたずら」と呼べない事はありません。
しかし、これが世の中に誤解と勘違いを生んでいるのです。
「いたずら」と称されると、その語感から子供のちょっとした悪ふざけの延長のような感じを受けます。
そこで、子供や子供並みの精神の持ち主は「これぐらいならやってもいい」と思い込んでしまいます。
彼らに冷静な判断力を望むのは無理な話ですから、犯罪行為はしっかり「犯罪」と表記する事で、
それが犯罪である事を彼らのおつむにしっかり叩き込まないとなりません。
それでは、純粋に「いたずら」とはどういうものでしょうか。
いたずら愛好家であるひぐちんはいたずらを次のように定義します。
すなわち「いたずらとは相手の意表を突く事によって相手を欺き、
それによって親睦を深めるコミュニケーションの手段である」と。
ここで大事な事は「相手の意表を突く」と「親睦を深める」です。
まず「相手の意表を突く」ですが、相手の意表を突くにはユーモアのセンスが問われます。
一時期「ガムぱっちん」(ガムを取ろうとするとネズミ取りのようなのが親指を挟むやつ)が流行りましたが、
当時もう仕掛けを知っているのに付き合いで引っかかってやらなければならなかった事が何度もあります。
ここまで来ると、いたずらではなく嫌がらせです。
第一、既製のものに頼るのは下の下です。いたずらは自分で創作してこそ価値があります。
意外と無視されるのが「親睦を深める」です。
当然の事ながら、相手に危害を加えてはいけません。
椅子に画びょうを置くのは確かに意表を突きますが、普通の場合は親睦は深まりません。
下手すると喧嘩になります。
「喧嘩したらダチぜよ」という世界もありますが、僕はその世界にはいたくないです。
また、いたずらする相手も選ばなければなりません。
自分にとっては何でもない事でも、相手にとっては深い痛手になる場合が多々あります。
いたずらをする前にターゲットをよく観察していたずらしたら怒る人かどうか判断しなければなりません。
慣れるまでは難しいですが、慣れると初対面の人でもいたずらできるかどうか見極める事が出来るようになります。
では、いたずらにはどんな種類があるでしょうか。
僕はいたずらの露見する時期によって以下の3種類に分類します。
一つは、トラップ型です。
これは、ターゲットの必ず取る何気ない行動に仕掛けます。
例えば、ターゲットが肩掛けかばんで通勤通学をしている場合、かばんのベルトを外して隠しておくとかです。
勿論、かばんはそのままにしておきます。
ターゲットは帰る時にかばんを持とうとして愕然とします。
まさかベルトが無くなっているとは夢には思わないので、非常に混乱します。
その様をニヤニヤしながら眺めるもよし、すっとぼけて「どうしたん?」と尋ねるもよし、
頃合いを見計らって首にベルトを巻きつけて登場するもよし、さんざんおちょくってあげましょう。
このタイプは如何に何気ない行動に罠を仕掛けるかにかかっています。
何気なければ何気ないほど、相手の意表を突きます。
ただし、あまり頻繁にやるとうっとうしがられます。
二つ目は、地雷型です。
これは、トラップ型がいつ罠にかかるかが分かるのに対して、
仕掛けた方もいつ炸裂するか分からないようないたずらを指します。
例えば、ターゲットの手帳やノートにパラパラ漫画を書くとかです。
このタイプの欠点はターゲットの反応を見る事が出来ない事が多いという事です。
また、このいたずらは埋伏期間が長ければ長いほど楽しみが増します。
ターゲットの反応を期待せず、相手へのプレゼントと割り切って仕掛けましょう。
三つ目のタイプは、「塵も積もればヤマト発進!」型です。
これは、ターゲットが気付かない程度の事を徐々に積み重ねていくというやり方です。
勿論、始めのうちは気付きませんが、何回もやり続けているうちに徐々に気付き始めるという寸法です。
例えば、椅子の高さを徐々に高くしていくなんてのは、なかなか面白そうです。
「なんか俺の椅子、高くなってるような気がする」なんて言い出したら大成功です。
あとは、いくらなんでも不自然だ、という位まで高くしてやりましょう。
また、以前ひぐちんは毎日30cm位ずつバス停を移動させた事がありますが、これもそのタイプです。
結局2m程移動した所で元の位置に戻されましたが。
どのタイプのいたずらにも共通して言える事は、財力と労力を惜しんではならないという事です。
気合の入ったいたずらほど、された側は痛快で一種のカタルシスを感じるというものですから。
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