97/12/06 「め組の大吾」〜新世代の超能力者たち

「め組の大吾」(少年サンデー連載)を読みました。これが、面白いのです。

この作品の面白さには、3つのポイントがあります。

1)まずは、主人公の「超能力」の存在。
2)次に超能力によって理性的な施行が覆されてしまうという驚異。
3)そして、超能力の存在感のたしかさ、あるいは、超能力の基盤です。

これらを、順を追って見て行きましょう。

消防官大吾は超自然的といってもいい感覚の持ち主です。超能力者といってもいい。そのように読むと、この作品は70〜80年代に流行したエスパーもののSFと非常によく似た構成を持っていることが分かります。

たとえば、そのようなSFでは、しばしば超能力を使うことで、主人公は自分の生命を危険にさらしてゆくことになります。これは一種のアニミズムの思想であり、オカルトものの霊能力などにも共通して見られます。たとえば「デビルマン」では、超能力を発揮することは、すなわち人間性を失うこととみなされています。また、山岸涼子の短編「わたしの人形はよい人形」では、霊能力を発揮することは「命を削る」と形容されています。「大吾」でもこの枠組みは踏襲されています。

そこで、面白いのは、この超能力が消防というシステムの中では全く狂気としてしか映らないことです。さらに、それはほとんど野生の感覚であり、大吾は自分自身で超能力を説明することもできない。しかし、その感覚で、ふつうはまず助けられない要救助者を見つけだし、救い出してしまう。つまり、この超能力のまえには、理性や、訓練や、システムは役に立たないのです。

つまり、理性とほとんど相反するものによって、実際に人間が救われるという驚異が、「大吾」のもう一つのおもしろさです。

しかし一方では、彼の超能力には、あきらかにSF作品の超能力とは違う感触があります。この作品にはオカルトの暗い不健全さもないし、主人公の大吾は危険を経るにつれて、やせほそって行くどころか、ますます躍動感を高めて行きます。

いったい何が違うのでしょうか。それは、この超能力が明確な目的を持つ「意志」として表現されている点にあります。ここで、大吾の持つ超能力の存在基盤、つまり、「なぜその超能力があるのか」について、考えてみましょう。

従来のエスパーものでは、超能力は「なぜかそなわっている」ものでした。少なくとも、理由はあっても、それは超能力者である主人公の意志とはかけ離れた場所で決定されるものでした。たとえば「デビルマン」では主人公が否応なしに超古代から続く異生物との闘争に巻き込まれます。「紅い牙」(柴田昌弘)でも同様であり、主人公には怨念のこもる「古代超人類の血」が受け継がれていました。

このような超能力者の闘いは、往々にして不毛であり、「通常人」は脇役でしかありません。そうした神話レベルの戦争は、個人を超えた運命的・悲劇的な感動を引き起こすことはあります。しかし、逆に、大風呂敷の設定が「デウス・エキス・マキナ」的に陳腐化することも容易でした。

いっぽう大吾の持つ超能力には、はっきりした目標があります。それは、「死のなかに生を見い出す」ことです。これは人間にとって、非常に根元的なテーマであり、置き換えることができないものです。

「死のなかに生を見い出す」この超能力に、読者が十分共感を持つことができるのには理由があります。この超能力は、他者に対する共感をベースにしているからです。

相手の生命を救うとき、彼はその生命存在の全体を救っている。その相手の人生や、家族や、愛する相手のことをすべて含めた重みを感じたうえで、救助を行っている。そこに、読者は共感を覚えるわけです。ですから、相手は、人間ではなく、動物である場合すらあります。

しかし、実際には、ここで見出される「生」とは、単純に要救助者の生命や安全のことではありません。少し違ったもの、かなり危険な要素が含まれます。場合によっては、他者の存在すら、二の次にしかねない危険性をはらんでさえいるのです。このことは、大吾というキャラクター自身がすでに自覚しています。

この危険性を描き出すことができたのが、「大吾」の優れた点です。つまり、大吾は生が他者の存在とは無関係に、単に死との対立として存在することに感覚的に気が付いているのです。しかし、その事実を肯定すると、彼は他者を理解したり、愛することが不可能になります。

いま、「少年サンデー」に連載中の作品中で、大吾は他者の存在をどのように自分の中で位置づけるか、悩んでいます。そういう意味で、この作品のもう一つのテーマは大吾の精神の遍歴と成長であり、ビルドゥングスロマンの面白さであるといえます。

さらに、消防という、これまでのマンガではほとんど取り上げられなかった題材をベースにした、細部におよぶリアルな筆致が作品世界の背後を支えていることもつけ加えないといけません。このようなリアリズムをバックに、理性をこえた生命の躍動を描いた作品としては、若干シニカルな筆致も含む「宮本から君へ」(新井英樹)があります。しかし、「大吾」はこれよりもさらにピュアな印象があります。


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