1965年名古屋生まれ。

 10ヶ月で歩き、一歳を待たず普通にしゃべったそうだがこれは母の記憶なのでどちらかというと眉唾である。4才頃より作曲の真似事を始め、その頃通っていたヤマハ音楽教室で「アラジンがとおる」という歌を初めて作曲したが「習う」という事がイヤでしょうがなく小学校へ入学と同時に音楽への興味がうすれ、しばらく距離をおく。
 小学校の頃は病弱で小児ぜんそくの治療のため大学病院へ通っていたが、この時、両親に買ってもらったベルリオーズ「幻想交響曲」のカセットテープを病院の行き帰りに聴き再び音楽へ傾倒。スコアも購入しランドセルにつめて毎日学校へ持っていき授業中ずっと眺めていた。またラジオで聴いたラヴェルの「亡き王女のためパヴァーヌ」、ドビュッシーの「海」に感激し再び作曲を始める。主にリコーダーやピアノのためだった。
 中学校で先輩の演奏したクラリネットに感激し音楽サークルに入部。ここでいろいろな管楽器を体験する。この頃サティを初めて知り音楽ノートにサティを真似した奇妙なタイトルのピアノ曲や歌曲を沢山作曲。今でもサティの作品を聴くとこの頃の事を思い出す。ピアノ曲「黒いほくろ」、「胎児の歌」等作曲。また「展覧会の絵」やストラヴィンスキーの作品を音楽サークルにある楽器のためにアレンジし楽器を憶える。サークルの先生には「もらった楽譜だ」とウソを言って中学の体育大会で自作のファンファーレを作曲し演奏したが、自分のイメージと出てくる音の格差に驚きはじめて音楽理論を意識し和声や対位法の本を読む。
 高校生よりピアノ、器楽曲の他に、集めたスコアを手本に見よう見まねでオーケストラやブラスアンサンブルの作品を書き始める。吹奏楽クラブというものは当時の高校には無く、授業が終わった後部室みたいな所でずっと楽器を練習するだけだったため、市民吹奏楽団に入る。すでにブーレーズ等現代音楽はレコードを通じて聴いてはいたが、たまたま友人に教えられたジョン・ケージにショックを受け実験音楽に深く惹かれる。ピアノ曲「ヨナが踊ったワルツ」「二台ピアノのためのパストラル」等作曲する。またシンセサイザーを初めて使ったのもこの頃だった。

 大学入学の頃よりまとまった形で作品を書きはじめ、初めて委嘱を受けたマンドリンオーケストラ曲「夜想曲」が100名程のメンバーで演奏された。卒業後、しばらく会社員勤めをし夜間に作曲を行うという二重生活を続けるが、体力的に無理が生じ会社を退職。作曲家として活動を本格的に開始する。その後『Virginal for Orchestra』(鹿児島大学25周年記念委嘱作品)『RS No6』(武蔵工業大学マンドリンクラブ委嘱作品)楽劇『流れ果つることなし』(愛知県文化振興事業団委嘱)等を作曲、音楽を担当した劇団夏蝶公演『マンザナ、わが町』で名古屋市民芸術大賞受賞。

 2004年幻想工房の野村幸弘氏と「WaterScape」東京大学フィレンツェ研修センターの委嘱により「回転の音楽」等を共同制作する。
 2004年、打楽器奏者、作曲家の片岡祐介氏らと卓上木琴、トイピアノ等小型楽器によるアンサンブル「コモノバンド」を結成。 
 2005年文化庁「本物の舞台芸術鑑賞会」において馬頭琴奏者張照翔氏の委嘱により馬頭琴協奏曲「ウルグナ(スーホーの白い馬)」、「ラサへ向かうとき」を同氏の独奏とセントラル愛知交響楽団にて初演。同年、野村幸弘氏と「聖地シリーズ」と題した映像音楽作品の連作を進める。2006年より工業をテーマに「PlantCantabile」と題する連作を制作。映像からアコースティック楽器のアンサンブルまで多種多様な方法を模索。2007年より筝奏者の樽本里美、チェロ奏者の石田和佳と「現状音楽」を結成。2008年12月よりマンドリンユニット、STEPSを設立。古典を中心としたマンドリン音楽の世界で賛否両論を呼ぶ。

 2003年5月「坂野嘉彦の世界1〜室内楽」同年11月「坂野嘉彦の世界2〜マリンバ作品集」2004年5月「Banno Yoshihiko Three works + 1 」開催。ピアノ曲、歌曲、室内楽等シリアスミュージックの他にも、ミュージカル等の舞台作品、テレビドラマの音楽、CD等のアレンジ、コンピュータ音楽を手がける。2006年よりマリンバ作品をブルーマレットより出版。
 
 演奏家としてはリサイタルの他、自作を中心にクラリネット奏者、鍵盤ハーモニカ奏者として活動。 日本音楽著作権協会会員。日本音楽家ユニオン中部地方本部運営委員。愛知学院大学マンドリンクラブ技術アドバイザー (2009/04/22)