3−2監督の新たなリーダーシップとは

 まずは監督について考えてみよう。前で述べたように、監督はチームをつくりそれを運営していく人である。つまり、監督がチームという組織の創造者になり、経営者になるのである。もっというならば、監督は組織のリーダーであり、かつマネジャーでなくてはならない。チームという組織のリーダー、マネジャーに必要な要素、それが強力なリーダーシップなのである。それはまた、監督がチームという組織にたいして非常に大きな責任を負っているということも示している。
 では具体的にリーダーシップとはどのようなものか、そして有効なリーダーシップとはどのようなものかをエドガー・H・シャインの「組織文化とリーダーシップ」を参考に述べてみよう。
 まず、リーダーシップの定義を明確にここで示しておく必要がある。

 「リーダーシップとは集団の基礎的な仮定や価値を創造し、あるいは変更する集団あるいは組織メンバーの行動である。」・・・エドガー・H・シャイン「新しい人間管理と問題解決」より

 これにより、チームにおける監督のリーダーシップとは、チームの組織文化、つまりチームに関する基本的な価値や考え方、チームの方針などを、生み出したり、作り変えたりする行動のことを示している。
 これをチームという組織の時間的な成熟にしたがって段階的に述べていくと、まず最初に監督はビジョンとともにそれを明確に表明し、強制する能力が要求される。つまり、チームをつくるために集めた子供たちの、雰囲気や、サッカーに対する考え方、なかでも特に技術に対する意識や、仲間に対する意識などが、どのようなものになるかの鍵を握ることになる。
 次に、監督は、形成されたチームという組織が、使命を遂行していく上で、支援となる文化や、妨害となる文化を常に洞察すること、そして、それらの文化に介入して、チームを望むべき方向へと発展させる行動が要求される。つまり、チームにとって何が大切かが分かる監督が、そのためになることはどんどんチームに取り入れ、害になることには積極的に排除を試みるのである。それには制度的なものもあれば、心理的なものもあり、様々である。
 そして、チームという組織が成熟すると、そこには、統合力を持った強力な文化が存在し、文化が様々な価値観、規則を規定する。したがってチームは、もはやリーダーシップによってつくられた組織文化を盲目的に維持するように機能するのである。この時監督は、チームのメンバーや組織文化が事実上環境面の現実に順応しているかどうか確認する必要がある。そして、順応していない場合、チームは存続を危うくするか、あるいはその文化を変革する方法を捜し出すかのどちらかになる。もし仮に後者を選ぶ場合は、実際に古い文化の横暴を打ち破ることのできる新たなリーダーによって変革が進められることになる。
 このようにチームの成熟度によっても、監督の発揮するリーダーシップは異なってくる。では、そのそれぞれに必要となる要素は何であろうか。


 そしてリーダーシップとそれに基づく組織管理には様々なものが存在する。そのなかには専制的なものもあれば親近的なものもある。確かに、ものすごい形相で叱咤する監督のいるチームでも基本的技術をかなり高いレベルで習得していたり、監督に怒られている以外の場面では楽しそうな笑い声が聞こえてきたりする。これはどう考えたら良いであろうか。
 R・リッカートの著書「経営の行動科学」では、人的資源の扱い方に関して非常に興味深い資料を残している。人的資源の扱い方と生産性との関係、人的資源へのアプローチの仕方による活動量の違いなどが細かく分析されている。この中で述べられている全体的なトーンとして、
「組織のメンバーは、自由度が高く、不当な圧力などの不安や緊張がなく、コミュニケーションが方向に関係なく頻繁に行われている方が、生産性が高いと感じており、実際に生産性や効率に良い影響を与えている。」
ということが述べられている。また、そのようなデータをもとにした上で、比較分析による4つの種類の経営管理方式の組織的、業務的特性が表されている。その4つとは、「独善的・専制的組織」「温情的・専制的組織」「協議的組織」「参加的集団組織」である。後にいくに従って、組織の動機付け、情報伝達、相互作用、意思決定、目標の設定やその命令、統制、遂行特性などが、先ほどのトーンをもとに体系づけられているのである。つまり、望むべき少年サッカーのチームへと変わっていくためには、より「参加的集団組織」への移行が要求されるのである。そしてここでは、もう一つ、次のようなことが述べられている。
 「生産、売上げ、原価、純益などのような終末結果的な変数のみを細かに見守るという現行の方法は、どのような管理方式やリーダーシップが最良の成果をもたらすかについて誤った結論に導きやすい。しばしばこのへんの事情を混乱させるのは、威圧的な監督方式が、特にそれが高度の技術的能力を伴っている場合には、短期的には、めざましい成果をあげうる、ということである。」
 こうして述べられているように、「技術向上」や「楽しさ」にかかわる何らかの成果が上げられたとしても、旧来のトップダウン的な、あるいは専制的なリーダーシップによる指導のプロセスは、決して長期にわたって成果を上げうるものではない。それは急激に、かつ一時的に成果に結び付くことはあっても、そこからの成長は必ず頭打ちになるということを示しているのである。
 実際、私のチームのある学年の子供たちに関して言うのならば、ある最初の時点で技術的に非常にいい内容で戦っていたはずのチームが学年を増すにつれ、試合で負けることのなかったチームに負けてしまい、いつのまにか浮き球の処理など、技術的にもほかのチームに劣ってしまったという事があった。その学年は、どちらかと言えば、負けだす以前から指導が専制的になっていたような気がしており、私の反省すべき材料となっている。このような組織管理は、他にも、チームにいた(技術的に高いと言われていたはずの)選手が実はいちいち指導されなければ上達できない創造性に欠けていた選手になってしまっていたという結果を導くことを示しているのである。また、逆に非常にセンスの良い選手がチームを変えた後、旧来の専制的指導によって上達の速度を遅めることになったり、上達を止めてしまうことも十分考えられる。
 ここでもう一つ、象徴的な例をあげるが、都内多摩地区の某クラブチームは以前から非常に技術的に高いレベルのチームであり、「○○ブロック(東京都大会の予選のために分けられたある地区のこと)に△△あり」と言わしめていた。この言葉は勝ち抜いていたからこそ言われていたのであるので、まさに「勝利至上主義」に浸かってしまったチームと言えるのかも知れないが、ここが、練習の厳しさゆえ、6年生を主体とした選抜チームが組めないほどクラブ員の数が減ってしまったという時期があった。外部からの判断であるので、様々な要因が絡んで、一概には論ずることは出来ないのかもしれないが、これもまさに、チームの厳しい指導のため、すなわち旧来の専制的な組織管理、あるいはそれに基づいた厳しいリーダーシップのために起こった問題であったといえる。
 このように、リーダーシップの中にも、「勝利至上主義」の文化を導きやすいものと、そうでないものとがあるのだ。したがって、監督は、前に述べたような、第4型の組織方式、すなわち、参加的集団のための組織管理方式に、できる限り近付けられるようなリーダーシップに基づいて、行動していく必要がある。
 こうしたリーダーシップには、意識にものぼらないほど目に見えない潜在的な物のことを示す「基本的仮定」の中にX理論、Y理論が影響しているために生ずるのだと考えられている。この理論は、人間の本質について、マクレガーが表したものである。前者は、
「1.平均的な人間は本来的に仕事が嫌いな物であり、もしできれば働かないですましたいと思っている。2.人間は仕事が嫌いであるということから、組織の目標を達成するために、強制し、コントロールし、方向づけ、脅かさなくてはならない。3.平均的な人間は、方向づけられることが好きで、責任を回避したいと願っており、あまり野心をもっておらず、何にもまして安全を望んでいる。」
というものであり、一方後者は、
「1.働いているときの生理的、精神的な努力は、遊びや休養のときのように自然である。2.外からのコントロールと罰の脅威は、組織の目的を達成するため人々を働くように仕向ける唯一の方法ではない。人間は、自分が参加している組織の目的を達成するために、自己の方向づけをし、自己を制御するものである。3.目標への参加は、それの達成と関連する報酬の関数である。4.一般の人は、適切な条件のもとでは、責任を負うだけでなく、責任を進んで負うものである。5.たいていの人は、組織の問題を解くに当って、かなり高い程度の想像力、工夫、創造性を発揮するものである。6.現代の工業的な生活という条件のもとにおいては、平均的な人間の知的な諸能力はほんの一部が使われているにすぎない。」
というものである。必ずしも該当するのではないが、専制的、高圧的なリーダーシップほどこのX理論が潜在的な意識のなかにあり、参加的集団をもたらすリーダーシップほどY理論が影響しているのである。特に、私が指導をしている場において、潜在的なX理論が実際に表出してくることは幾つもある。例えば、チームにおいて監督と私が交わした会話のなかで、「子供だから・・・」とか、「ガキだから・・・」と結論付けているときや、「あの子は・・・だから・・・」などとマイナスイメージで決めてかかっているときなどは、得てしてX理論の意識が潜在的にあるといえる。また、このような時の直前での指導は、理想とは程遠く、厳しくしたり、威圧的だったりする。結局は、実際のいい成果は上げられないのである。
 従って、監督の指導の根底に流れる基本的仮定としてY理論的意識に基づく指導、すなわち、子供たちを一人の人間として認めていくリーダーシップが求められるのである。


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少年サッカー指導コラム「監督の新たなリーダーシップとは」
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