写真の創造性にもかかわる社会問題
 この問題は、ジャーナリズムの姿勢が消極的なこともあって、なかなか表面化しない。一九八五年のアサヒカメラ一一月号の言いたい放題の欄には、「サービスサイズ」のタイトルで中村立行氏による、インチキの代表はサービスサイズのプリントであると、写真業界に対する痛烈な批判が掲載されたことがある。しかし、これは稀な例であると思う。今でも、写真雑誌には、現状のネガプリントでは意味をなさない<露出の決め方>が重要なテクニックとして取り上げられるが、結局はいいラボを選べといった回答で濁されている場合が多い。  またこれを、僅か三五円のサービスプリントだけの問題と考えるとすれば間違いである。機械的なプリントで正しい結果がだせないということは、確かな記録もできない、そしてたしかな表現もできないということを意味し、写真の創造性の基本にかかわる大きな問題でもある。ラボにまかせればできるという反論は詭弁である。もしそうであるなら、撮影時に厳密なコントロールをする意味はどこにあろうか。  一般紙には、ときどき、この種の深刻な投書が掲載される。たとえば、朝日新聞の<声>の欄には、一九八九年一一月九日号には、<不満な現像は苦情を言おう>、一一月二八日号には<写真処理の過程を業界は明かして>と立て続けである。両者とも、「プロ並みの正しい撮影にもかかわらず」、前者は「一流ラボへ依頼したにもかかわらず、雪景色が、赤土色に覆われたプリントに、新緑の景色が秋景色に、そして黒い絵が薄灰色の絵に」、そして注意書きを添えて焼き直しを依頼しても前よりひどい写真を渡されることも多い。心のこもった現像(プリント)のプロは育たないのか」。後者は、「白バックで写した金貨がタドンのような黒い金貨となった。同時プリントと焼き増しがあまりにも色が違い過ぎる」、「処理の種明かしをするとともに、値段は高くても、人手によるルートも必要ではないか」と同じ体験をさせられている我々の不満を代弁している。五年前だが、事情は少しも変わってはいない。いや、二〇年もっとまえから同じ状態なのである。  このような明らかにアンフェアーなことは、写真及び社会に対する不信感につながっていることを重視すべきである。その欺まん的な状況は、写真と社会の健全な発展を妨げるものであることはいうまでもない。写真に対するイメージもどんどん悪くするばかりである。また今のサービスプリントの氾濫は、あきらかに人間の色彩感覚を鈍らせる大きな原因もつくっている。  ところで、それを改善するにはどうすればよいであろうか。投書では両者とも、人手による解決しかないのではないかと意見であり、世間でも同様の考えが支配的のようであるが、これは、はっきりいって間違いである。色再現そのものは基本的にはサイエンスの問題であり、本来、人が感覚的にコントロールすべきものではない。あとで述べるように、この問題は、<プリント基準を明確に>し、現状のプリント機械から余計な調整をおこなう<間違ったオートマチズム>を取り去れば、人の手を借りずとも簡単に解決できるからである。
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