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WRITE IT LOUD!! ROLL OF ROCKS

                        1996年10月11日開始

                                  火だるまG

第9回:1997年2月11日

AMERICAN PIE/DON MCLEAN(71 IN AMERICAN PIE)


今は遠いあのころ
音楽がいかに僕に微笑みを与えてくれたか
僕は今でもはっきりと思い出すことができる
僕にその機会があれば
僕もいつか僕の音楽で人々を踊らせてあげよう
みんなきっと喜んでくれるはず
そんなことも考えてた
でもあの吹雪の凍えるような2月に
僕が配って歩いた新聞に悲しい知らせが
ドアステップで僕は凍りついた
残された彼の若き未亡人の記事を読んだ時に
僕は声を上げて泣いたのだろうか?
僕の心深くに沈んだあの思い
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ

聖書を書いたのはあなたでしたか?
あなたは神の存在を信じていましたか?
聖書にそう書いてありましたか?
君はロックンロールを信じるかい?
音楽が君の魂を救うと思う?
君は僕に本当にゆっくり踊る方法を教えてくれる?
僕は君が本当に彼を愛していたことを知っている
だって君はいつも体育館で踊っていたもの
みんな裸足になって、リズムアンドブルースにのりまくった
僕は寂しきティーンエージの喘息持ち
ピックアップトラックにはピンクのカーネーション
でも結局は僕にはつきがないことを知らされた
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ

あれから10年もたっちまって、俺ももう一人前
ころがる石にも苔がみっちり
こんはずじゃなかったのに
ディランがジェームスディーンから借りたコートを着て歌った時に
俺たちは驚いた
それでエルビスがよそ見しているすきに
彼が新しい王様になった
別に異議を唱える者もなかった
レノンがマルクスを読んでいたころには
シェイスタジアムの演奏は練習レベルだったし
お先真っ暗という感じだった
音楽が死んだあの日を思った

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ

ぐったりくるような、ヘルタースケルターの夏の惨劇
バーズは8マイルの高地の壊れゆく巣からおん出て
スンゴイ勢いで落下していった
グラスに着地するなんて反則だぜ
ディランも一枚かんでいた
休むなら休むでいいけど
サージェントの行進曲にはうんざりで
俺たちは踊りたかった
でもそのチャンスがなかった
奴等は自己主張ばっかりで
絶対行進曲をやめない
あらわになったことは結局なんだったかわかるかな?
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ

みんなが同じ場所に集まった
あの世代にはほかに行くところがなかった
やり直すにも遅すぎたし
だから目鼻がきくジャガーにお願いして
すばやく蝋燭に火をつけてもらった
火は悪魔の唯一の友達だから
奴のステージを見ていると
俺の拳に怒りが満ちてきて
地獄に天使はお呼びじゃない
悪魔の呪文から逃れるすべもない
炎が最高潮に達した夜
聖なる犠牲にスポットライトがあたったというわけ
俺は悪魔が嬉しそうに笑ったのを見たよ
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ

俺はブルースを歌う少女を知った
俺はジャニスの幸福を願った
しかし彼女は微笑みと共に逝った
それで教会に行った
昔はそこで音楽を聴いた
でももう音楽はやらないんだって
通りではガキどもが絶叫している
恋人たちは泣いている
詩人は夢を見ている
しかし言葉がない
教会の鐘も壊れたまま
結局俺が信じられる者は
父と子と精霊のみ
彼らも汽車に乗って彼岸の地に行ってしまった
音楽が死んだあの日に

さようならアメリカンパイ
シボレーを転がして土手までいったけど土手は乾いていた
友達と酒を飲んで歌った-THAT'LL BE THE DAY WHEN I DIE.ーこれでこの世界もおしまいだ




小学校5年生の11才の誕生日の当日まで、俺は千葉県柏市の豊四季団地という、全部で101棟の5階建てのコンクリートアパートが整然と立ち並ぶ空間で棲息していたのだ。スーパーも学校も全てその敷地内にあり、年収その他の入居資格で人間がスクリーンにかけられた結果、全住民が衣食住にほとんど差がないという、そこはまるで空想の共産主義社会のような実に均質的な密閉空間だった。俺がその箱庭のような空間にインプットされたのは団地がまさに産声をあげた小学校1年の入学式の直前だった。
その人工的な空間で、いく人もの俺の分身たち、つまり他のガキどもとともに、いく人もの俺の両親の分身たちの優しく暖かいマナザシの庇護の下、俺はとろけるような幼少年期を送った。101棟の団地の全ての棟に1件や2件は知り合いがあった。極端な話をすれば、あの頃のあの団地の住人が全て知り合いだったともいえそうな気がする。つい先日、俺はあの団地に行き、アトランダムに郵便ポストの名前を見てまわったが、覚えのある名字がいくつも残っていた。あの人たち、もしくはあの人たちの子供たちが、まだあの土地にいるのであろうが、今となってはにわかに信じがたいというのが実感である。
しかし、俺の個人史において、後にも先にも、あのような甘美な乳と蜜の土地はなかった。大きく開け放たれた窓でゆるやかに風になびくいくつものレースの真っ白いカーテンを、きらめく陽光に目を細めて見上げながら、サーモンピンクのサラサラした粉を吹くアンツーカーの公園で、黄土色の軟式テニスのボールでの幼い野球に歓声をあげるガキドモの1人としての自分という感じなのである。
30年も昔のSFみたいな思い出。
1969年、両親が神奈川県横須賀市に敷地63坪の一戸建を得た結果、否応もなく、ごく普通の世間にひきずりだされた俺は、それから先、社会の同質性に注目するよりも、血眼になってその差異を求める平凡な野郎に成り下がっていった。棲息地が共同社会から、競争社会に移行したわけである。1字違いで大違いとはまさにこのこと、人間に勝ち負けつけて何になる。それより何より、人生の勝ち負けの基準とは何なのだろうか? だれかご存じの人がいたらご教授願いたい。
何故なら横須賀以降、俺はいわゆるいい高校、いい大学、いい会社と歩んだが、人生はそれほど楽しくなかった。ごく簡単にいってしまえば、おのれがなんのために生きるのかが皆目見当もつかない状態であり、いいようもない孤独感にとらわれ続けた日々でもあった。漠然にではあるが、自分がどのような人生を送りたいかについて実感を有していたにもかかわらず、それを実践する度胸も努力もなかったのであるから、それも当然すぎるくらい当然であるが……。
幼年期少年期から青年期成年期へと年を重ねていくことは、逃がれることのできない人間の運命とはいえ、痛恨の極みである。「人間いたる所に青山在り」などというのは自己喪失者のタワゴト、嘘っ八もいいところで、求めるものを自覚することは困難であるにしても、何事につけ「求めよ、されば与えられん」が正しい。いいきってしまったが、もちろん、そんなことに気がついたのはごく最近である。念のために、いっておくけれど、俺は別にガキのあの頃に戻りたいと、泣き言をいっているわけではないですよ。TPOに左右されるべきではない、人間の心のモチヨウについて自戒しているのです。
団地の原風景を描写してみたついでに、分譲地のイメージを想起してみれば、それは、毎日毎日、陽が沈みかけると同時に一斉に鳴り響く、雨戸を閉めるがらがらがらという音である。他人との関係性拒絶の象徴のような哀れな物音。千葉県柏市のあの団地、神奈川県横須賀市のあの分譲地、集合住宅と1戸建てと形態は違うが、マンモス住宅地という概念でくくれば同一である。タイムラグは、ほぼ10年。変わっちまったのは、俺だけであったのだろうか。
ロックバーを始め、書き物をすることを決意した時に、俺はもう30才をこえていたが、それを形にしていく道筋で俺はあの乳と蜜の時間のグレイトフルな実感、誰かと一緒に生きているという感覚を取り返すことができた。2人の友、Aと工に常日頃、心より感謝するゆえんである。
そこまで20年。全く遠回りをしたものだ。俺がロックバーの存続、および、書くという行為に執念を燃やしているのは、共生が物理的空間にのみ限定されるべき言葉ではなく、心理的空間でも有効な言葉であると確信しているからなのである。あなたは賛同してくださいますかしら?
話は大きく遡って、その遠回りの第1日目、つまりあの引っ越しの朝、俺は初めて自家用車というものに乗った。父の会社の同僚が俺と父を車で柏から横須賀に運んでくれたのである。そして見知らぬはずの横須賀の町に入り、俺は俺が国道16号線を走っていることに気づき、不思議に思った。なぜなら俺が出発した柏も国道16号線の町のはずだったからである。11才のガキの辞書に環状線などという言葉はない。
ここまでがたがたつまらないことばかりを述べてきて恥ずかしいのだが、ようするにグッドもバッドも環状線の楕円形の輪っかのどこかでつながっているということがいいたい。グッドのちょい先にはバッドが、バッドのお隣にはにはグッドが佇んでいる。そんなことがハゲの「柏」のひとことが喚起した第1のイメージである。
俺の楕円形の頭脳に浮かんだイメージが、さらにイメージをイマジンする。 その車中、ラジオがつけ放しで、大人の会話に挟むべき言葉もないガキガキの俺は旅すがら、ずーっとそれに耳を傾けていた。
−−− 背伸びしてみる海峡を今日も汽笛が泣いている。
の「港町ブルース」だったか、
−−− あなた一人にかけた恋、愛の言葉を信じたの。
の「長崎は今日も雨だった」か、具体的に何がそれ(It)だったのかは確定できないが、まぎれもなく俺は、その日その時、音楽に目覚めたのである。
1969年、11才の俺は、まず日本歌謡曲から音楽の世界に入った。水原弘、ちあきなおみ、中村晃子、尾崎清彦。時は、まさに日本歌謡曲の全盛時代だった。俺はラジオの歌謡曲のチャートを定期的にチェックするようになった。毎週日曜日の午前にロイジェームスという青い目の江戸前がDJをやっていた「不二屋歌謡ベスト10」という番組である。 中学に進むと、たちまちフォークブームがやってきて、チャートに吉田拓郎、古井戸、井上陽水というような面々が入ってくるようになり、俺はますます音楽に熱中した。過去進行形で平凡な野郎に成り下がっていく俺に、音楽は現在完了でいつもいつでも優しかったのである。
ドン・マックリーンというアメリカのシンガーソングライターの1971年の作品に、1959年2月3日の、ロックの先頭ランナー、バディ・ホリーの突然の飛行機事故死が、少年であった自分にいかなる影響を与えたかについて歌った「アメリカン・パイ」という曲があるが、その歌詞に「DO YOU BELIEVE IN ROCK N ROLL AND MUSIC CAN SAVE YOUR MORTAL SOUL AND CAN YOU TEACH ME HOW TO DANCEREAL SLOW?」という一節がある。簡単な英語なので不必要な翻訳はつけないが、俺としても音楽のことを考えると、もしもあの日あなたに出会わなけりゃ、この私はどんな男の子になっていたでしょう?という感じがするのである。たとえが古くてすいません。
思いおこせば、実にちっぽけなアイワのカセットデッキ。紙の箱で包装されていたソニーのカセットテープ。たった2曲しか録音できない往復10分のテープの紙箱の色ーはイエローだっけ? グリーンだっけ? レッドだったっけ? そしてある日、俺は何かの拍子で亀淵明信さんと、名字不明のおチカちゃんという女性アナウンサーがMCをしていた「ポップスベスト10」という番組に遭遇したのである。その番組は「不二屋歌謡ベスト10」の前番組として放送されていたのだが、偶然その日少し早めにラジオをつけるまで俺は気づかなかった。ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」が流行っていたころだから中学2年のころだろうか? ジョン・レノンの「イマジン」をその日に初めて聴いた気がする。ダニー・オズモンドが「ゴーアウエイリトルガール」を、サイモンとガーファンクルが「アメリカ」を歌っていたみたいだ。
そして今、俺はロックバーをやっているのである。



上記太字の文章は、約2年前に全ての若き野郎どもに送る、楕円形のエッセイ『追憶の16 号/ハゲとの旅』のために書いた文章でありますが、その時には、なんとなく割愛しました。ここで復活できてたいへん喜んでいます。
『AMERICAN PIE』は1959年2月3日、22歳で逝ってしまったバディー・ホリーへのレクイエム。僕がこの詩を訳したのももちろん2月3日。38回忌にあたる月曜日でした。夜には、店でこの曲を3回続けて聴きました。というのは、この事故ではあと2人、リッチー・バランス(ラバンバ)とビッグ・ポッパー(よく知りません)が亡くなっているからです。合掌。
僕はこの曲の「DO YOU BELIEVE IN ROCK N ROLL AND MUSIC CAN SAVE YOUR MORTAL SOUL AND CAN YOU TEACH ME HOW TO DANCEREAL SLOW?」というところが大好きで、「THE THREE MEN I ADMIRE MOST ,THE FATHER SON AND HOLY GHOST」というところが大嫌いです。この3人は実は亡くなった3人を象徴しているのですが、曲全体でキリスト教をコケにしているにもかかわらず、やはりこんなたとえを使ってしまうということが、西欧社会におけるキリスト教の呪縛の強烈さを示しているのでしょう。
ロックの歴史上、稀代の叙事詩ともいえそうな、この曲についてはこのようなページもあります。僕はわからないところはどんどん割愛しましたが、この曲全体に無数の曲や音楽関係のエピソードがちりばめられているようです。

僕のこの歌詞にスポットをあてる連載で、取り上げる曲の音楽面が最高に格好いいことは保証します。大音量で10回続けて聴いてみてください。きっと感じるものがあるでしょう。(この企画、文章、考え方などの著作権は一応存在するといっておきます)


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