追憶の16号線/ハゲとの旅(PART4)

追憶の16号線/ハゲとの旅-6番旅


千葉−八千代−船橋−白井−沼南−柏
35・42KM

ハゲが国道16号線1周の旅の最後のお絵描きポイントとして選んだのは、千葉県八千代市神久保110−1、日蓮宗東福寺境内から奥の崖沿いに20段の石段を登ったところに鎮座する番神堂である。

旧暦では、1ヵ月が30日。1日から順番に伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大比叡、小比叡、聖真子、客人、八王子、大原野、大神、石上、大倭、広瀬、竜田、住吉、鹿嶋、赤山、建部、三上、兵主、苗鹿、吉備津、熱田、諏訪、広田、気比。  番神堂とは、以上の日本の主だった神々が、1日交代で仏教の広まる国土と人々を番(守護)するのだという神仏混淆思想に基づく建物だそうなのだが、今日みたいに新暦の31日にはどうするのだろう?神様のミナサン、本日は定休日ですか?マジで胡散臭いよなと思いながら、実際間近で見るとこれが実にみすぼらしい。赤屋根はトタン屋根にハゲハゲのペンキ塗りだし、アルミサッシの入り口は斜めに傾いて半開きのままである。

しばし口元半開きで呆然としていた、ハゲ曰く、バイトの行き帰りの車中、以前から目をつけて、最後はここを描こうと念じていたということだが、これではロングショット(遠景)で処理する作戦をとらざるを得ない。ハゲはとぼとぼ遠くに向かって歩いていく。

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お気づきの通り、決して無神論者ではないが、俺は神も仏も信用していないから、この番神堂がダサかろうがなんだろうが構いやしないが、(森羅万象を司る八百万の神々の皆さん、そんなこというとバチをあてるぞというならば、どうぞおあてください。ただし半殺しは、経済的その他の理由で面倒なので、即死でお願いします)どこでなにを描くかは、全て初めからお約束のハゲのオプションであり、ここはやめないかという立場ではないので高場から無言で辺りを見回すばかりなのである。

眼下に、50cmX60cmX20cmの御影石でできたお墓が、全部で7かける13の91基、ちっぽけな敷地に整然と並んでいる。そのうちの1つ、平成7年2月吉日に建てられたSさんという一族のお墓は、A家にお嫁にいったH子さん、Y家にお嫁にいったH子さん、K家にお嫁にいったF子さんの3人姉妹が実家のお父さんが亡くなった際に連名で建てたものであろう。
その向こうでは、これはたぶん墓地の拡張工事なのだろう、小松のユンボやミニドーザー、ボマーグのローラーを使って、5人の労務者が汗を流しており、そのうちの手作業で穴を掘っている2人は南米もしくは東南アジアの人である。工事現場の傍らに停車している車はメルセデスベンツ、汗を流している5人のうちの誰がそれで帰るのであろうか。

  墓地の石砂利の上には全部で4つの蝉の脱け殻。
墓場で誕生した命の痕跡である。
その命も既にこの世のものではないであろう。
終わりが始まり、始まりも終わる。

  ハゲはあいかわらず遠くの方でお絵描きしている。

Iという一族の墓の前に細長い御影石がちょこんとあり、それは、一族の愛したエス、シャック、ホクという名前の3匹のワンコたちの墓碑である。紺色に光る細長の御影石があたかも精悍なプードルのお座りの姿勢のようで、我らが大先達ジョン・スタインベック氏の真実を求める旅にお供した、愛犬チャーリーのご冥福を心からお祈りして、俺とハゲの旅はここで一巻の終わりなのである。

LOVE DOG, NO GOD.

俺とあなたの楕円形の旅の、全ての随走者の魂が安らかであることを。
遠くでハゲが手を振っている。太陽がまぶしい。

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エピローグ/ハゲの逆襲
(取材・構成・脚色 火ダルマG 於:千葉県松戸市「CASA」松戸馬橋店)

  西川氏の考え方のパターンみたいなものが結構わかってきた。
西川氏と親しくなりたくて近寄ってきた人たちには、イヌだとか、オウムだとかいって、けなす傾向がある。この間京橋の「雲楼」に焼きそば喰いにつれていってもらったときに、俺の後ろ姿見て、これはオウムだなといった。結構傷ついたんだ。確かに髪の毛を後ろに束ねているけれどね、俺は。近づいてくる奴を、そんな風に揶揄して喜ぶ人だから、この旅が終わった感想を述べよといわれて、ほいほい話しても、どうせいいように脚色されちゃうんじゃないかと、俺って八方美人でいたい人だから、あんまりめりはりつけられるのも嫌だなという気がする。

    旅の途中で思い浮かぶことなんて、ここのお絵描きポイントではもっとこういう風に描けたのではないかとか、そういうことばかりで、だって図書館に画集とか見にいって、床に広げてあぐらかいて見てたら、図書館員に変な目で見られたりもしたんだから。それはこの旅をする前にはなかったことだとはいえるのかもしれない。

西川氏のものの作り方が、結構身を削ってというか、自分の経験を下敷きにして、やっていたりするわけで、それをそのまま自分にあてはめるのは他人の物真似をしているようなものだから、清水アキラが村田英雄先生の物真似をするような、それで大まかなところはいいのだけれど、細かいところはちょっと違うかなと。西川氏が西川氏の体験を基にしてやるのなら、俺は俺の体験を基にしてやるのがいいのだろうと思ったわけです。だけど今までほとんどちゃらんぽらんに生きてきたから、さっきのオウムの話じゃないけれど、つまんないことばかり気になって、自分の人生をふりかえって断片的に覚えていることはあるけれど、そこには感情らしい感情がないというか、いま思いだしても泣けてくるとか、笑えるとか、ないのね。アパシーだからさ。なんでアパシーなのか?なんでだろうね?見ようとしないんじゃない。頭脳労働を怠けているというか、そういうことなのじゃないの。今回だって16号を回るというアイディアとか、写真や絵を俺が描くというアイディアだとか、全部西川氏が立案して俺がそれにのっかってやってきただけで、もちろん今の俺じゃ、石の上に3年いても、アイディアなんてでてこないけれどね。

それでさ、車の中での会話とか、絵描いててでてくる感想とか、なににしても全部西川氏が凌駕しているんだよ。気というか。覇気というか。意気込みというか。エネルギーというか圧倒しているのね。まぁ、西川氏ももうじき燃えつきるかもしれないけれども。それに、西川氏が俺のいっていること全部理解してしまうのよね。こんなこといっているけれど、こういうことは俺の経験と現状と照らし合わせてみると、こういうことかみたいに。そういう風な感じで、みんな手の内にあるんだよね。それが結構気に入らないんだ。西川氏が、なに者だこいつは見たいに感じるような、キチガイとかそういう意味じゃなくて、そういう人になれれば面白いな。普通西川氏以外の人と話していて、俺がこれこれこういうことがあったといっても、それが記号というか、映画を見たみたいにさ、こういうことが彼にはあったのだとしか理解しない。西川氏の場合は、こういうことがあったと聞いたら、自分の経験と照らし合わして、それはこういうことかと、単なる感想じゃなくて、感想の感想というか、感想をアウフヘーベンさせたみたいなものが出てくる。ちょっとバカにしている?そんなことない?俺、バカにされているに対して過敏症だから、そう感じるのかな。バカにしているでしょ?そしてそういうアウフヘーベンした感想みたいなものを、西川氏が確固として持っている考え方みたいなもの、たとえば宗教嫌いとか、政党嫌いだとか、そういうものを補強していくことに使うのよね。つくづく自分勝手な人だと思うよ。西川氏がどういう人かと人に聞かれたら、とても自分勝手な人だと答えるよね。飯喰うにしても、糞するにしても、話しするにしても、ぷんぷん臭ってくるのよね、滲みでる西川エキスみたいなものが、それが面白いんだけれども。

  結局この16号の旅では、西川氏の観察が8割くらいなのよね。俺にとってはさ。絵なんて学校の授業以来ろくすっぽ描いたことないし。漫画はやっていたけれどあんなのは絵じゃない。漫画とかいっても、目なんかでも、点を2つ描いて、これで目だという世界だもん。鼻は点1つでいいやと。ピースマークみたいなもの。それは絵じゃない。それはそれで、それも絵じゃないかと?そういう風に人の話を根底から揺らがすようなことをいうのよね。西川氏は。さっきいったことはまさにそういうことです。とにかくこの旅の間、8割は西川氏の観察。残りの2割は絵をどう描くかとか、写真はどうかとか、そういうことだった。

  なんだったっけ?いおうと思ったことを脇道に入ったとたんにみんな忘れちゃう。西川氏を観察しながら16号を回ってみて、誰かとこういうことするのは初めてだし、そういうのは結構嬉しかったりするわけ。嬉しいとか悲しいじゃ幼稚すぎるって?そりゃそうだけれど、俺の場合、なにかが俺の心と頭に定着するまで時間がかかるのね。最後にこのファミレスでインタビューやるっていわれて、このファミレスってさ、青短の女の子かなんかが、頭撃たれて死んでしまったところなんでしょ?そして俺のインタビューをここでやるってずーっと前から決めていたりするんでしょ?そういうのってなんなの、西川氏にとってさ?まぁ、別にいいけどね。

一応なにを話そうかと考えようとしたわけ、でもいいたくないという気持ちが強くて、いいたくないでいいじゃないかと、それでそのいいたくないという気持ちが思考の邪魔をしたりするんだよね。こんなおじさんに、オウムだとか、イヌだとか、傷つくようなこといわれて、それでいっている本人はいった端々から忘れていくしさ。そんなおじさんの掌の中で踊るのは由としたくないというのはある。それにいわなくてももう全部わかっているんじゃないのという気持ちもある。

やるにあたって、実際に柏から出発するときには結構意気がっていたわけ。西川氏を喰ってやるみたいに。途中で俺が偉そうにいったじゃん。搾り取るとかさ。それはどういうことかというと、俺は一応3つ考えていたのよね。このプロジェクトに参加するにあたってさ。まず西川エキスを搾り取ること。そして絵に挑戦すること。そして義務を遂行するというか、最後までやってみる経験をすること。さっき意気がっていたなんていったけれど、本当は、ご存じの通り逃げていたじゃん。打ち合わせしてから最初の旅にでるまで、3カ月だものね。できることなら、そんな面倒くさいことはしたくないと。この間の話は酔った勢いなのですと、いく度打ち明けようかと。俺は、人となにかやろうとか自分からいいだしておいて、後でやっぱやめようとか平気でいっちゃう怠け者だから、いった以上はなにかを最後までやるということを、やってみようと思った。絵に対する挑戦でいえば、ロックを聴いている人間だから、自分でプレーするということには憧れるわけですよ。そして、もうこの年になれば、音的には駄目だなと、思っているわけ。駄目っていうかさ。ミュージシャンって、みんな追求するじゃん。練習でも、なんでも、最低1日2時間はギターひくとか、1日中ギター抱いているとか。それは好きということなんだろうけれども。俺音楽好きだけれども、そこまでは面倒くさくてできない。やっぱり聴く側の人間なのよね。面倒くさくない範囲で俺も色々やったのよ。人の頭の中に個人的に流れている音、リフとかフレーズとか、それを現実化して結晶化するのが、音楽だと思って、なん遍もオーバーダブとかしたりして、もう消しちゃったけれども、やったわけ。でも全然面白くないわけ。他の人が聴いたら面白いのかもしれないけれども、これだったらストーンズ聴いていた方がずーっといいやと思う。白状すると、友だちとかに聴かせて鼻で笑われたこともあるしさ。だから結局音でなにかをするのは断念したということがあるわけです。だけどプレーすることには、今でも憧れっぱなしなわけ。それを今度は絵でやってみるかと軽い気持ちで始めたのだけれど。やはり怠け癖がでた。実際この西川氏とやっていること以外に絵を描いていないものね。そういう自分を打破したいと思います。義務に関していえば、すっぽかしたことはないし、自分としてはよくやったと思います。

  他人に語るとき、西川氏を知っている人間に語るときには、もう自慢話ですね。西川氏を引っぱりだして、こんなことをやっているんだという。俺が引っぱりだしたことにしているから。西川氏を知らない人間には、写真などの証拠物件を見せて、自分がいかにアーティスティックな生き方をしているかという、これまた自慢話になるわけです。野郎には話しません。たいてい女を口説くときに利用しています。俺と同じ年ぐらいの人間って、普段はバイトなり会社なりで仕事して、土日は女の子とデートして、いなけりゃパチンコするとか、そんなものじゃない。そういう連中とは俺は違うのだということを、無意識で語っているのだろうね。

他人と比較しても、西川氏は、俺はこれでいいのだという結論に落ちつくじゃん。自分は自分でしかないといういい方を最後にはする。俺はそこまでいかない。よそ様がかわいい女の子を連れていれば、俺は指をくわえたりする。まぁ、全然気にしない西川氏と、大変気にする俺と、どっちが平凡なのかといえば、多分俺なのでしょう。アイデンティティの確立の差なのかね。それで、俺もアイデンティティを確立するのだと、途中から、旅の目的を増やしたりしたのだけれど、旅の間中の馬鹿話が楽しかったり、女の子に自慢したりするので忙しくて、なかなかそこまでいかなかった。これも反省になります。

俺はもう西川氏とはやらないと決めた。自分でなにかをしなくてはいけない。いつか西川氏に、16号の旅から先に、お前なにかしているのかと聞かれたときに、はいやっていますと、別に胸を張っていう必要はないけれども、さらりと、やっているよといえば、証拠見せろって、必ずいうだろうから、コメントをもらえるようにやっていこうと思う。なにかをしていこう。なにをやるかは分からないけれども、とにかくこれから、第2、第3をやる。そんな気にさせてくれたのが16号の旅だったのだろうと、そして次や次の次の時には、16号の旅で感じたことや、西川氏が色々いってくれたことを活かそうと思うよ。お前にはビジュアルを任せたんだから、もっと責任もって気を配れとか、やるときには一気呵成にやれとか、期間を区切ってやれとか。そういうような愛情あるアドバイスを活かそうではないかと。という風に考える月並みな人間ですよ、俺は。

基本的に俺は他人の目が気になる。でも、最近そういうのが嫌になるときがある。女の目でもいいけれども、そんなのは子供だと、公言してはばからなくなりたいときがある。そして、前は、そう思わなかった。これから先、なんらかの形表現活動を続けていって、完全に他人の評価なんてどうでもいいんだ、問題は俺がなにをするかだ、そしてそれを気に入るかだという風になりたい。あっ、いい切っちゃった。

他人に利用されたかどうかを感じるのがすごく鈍い人間だから、西川氏が俺を利用したのかについてもすごく無頓着で、でも、なににしても、他人から相手にされるのはすごく嬉しいよね。嬉しいけれど、それだけでは100%は満足もできない。

スケッチブックにクレヨンで色々描いてきたけれども、俺は西川氏以外の第3者に見せようとして描いたわけではない。でも、少しは知らない人で俺の絵を見る人を、おお、といわしたい気持ちもある。でも本当はすごく不安で、そんな不安を感じない人になりたい。今の俺には技術もないし、日々の生活の中で表現の糧を拾っていこうという気持ちで生きているわけでもない。情熱に関してもかなりあやふや。だけど自分の持っているもの、条件はそれなのだし、それがスタートラインだよね。そこから始めて、いきなりすごいものが作れる人は天才なのでしょう。俺みたいな人間がなにか作ってみてさ。そういうなにもない自分がやったらこうだった、こんなのでましたと、まぁ、結果に関してはしょうがないよね。

西川氏がどんどんエッセーを書いてさ、俺に見せて、お前も絵を描け描けって調子でプレッシャーをかけてくるじゃん。嫌みだったね。だったら俺も家でどんどん描けばいいのだけれど、そうしないというか、できないんだな、これが。

西川氏が俺にさ、表現をしていく上で伝えるべき方法論や技術を持っているかに関しては疑問だね。だって、もの書いて、しつこく推敲するようになったのもつい最近のことなんでしょ。西川氏。本当はさ、俺が心底心酔している作家にさ、実は私は表現してみたいのですとお願いしてさ、そういう人を引っぱりだしたかった。そういう人はたいがい他界しているんだけれどね。そうすれば、どっかの出版社かなんかに持っていけば印刷されたりする可能性もあるしさ。方法論や技術を持っているのですか?西川氏。もし持っていないのなら、なにを俺に伝えようとしているの?その無責任さを伝えようとしているのですか?

西川氏は、今の世の中の、薄さ、これジュースが薄いとかそういう意味だよね。その薄さが気に入らないとかいつもいっているけれども。世間は西川氏のことなんて、これっぽっちも気にしていませんよ。そんな相手にもしてくれない世間のことを考えるなんて、なんか寂しくありません?

だいたいいつもさ、お前らは若いうちから純粋消費者、財布として扱われて、気の毒だ、文学も、映画も、音楽も、お前らからいくら巻き上げられるかばかりを考えていて、発想がそれだから、最大公約数に受ける、どうでもいい表現ばかりだ、なんていっているけれど、そんな世の中を形成している1部としての西川氏を、西川氏はどう考えているの?たしかに俺たちは、女とやりたい、なにか買いたい、それしかないよ、ちんちんと財布だけ、ちんちん財布だけれどね。西川氏だって以前には多かれ少なかれちんちん財布だったわけだし、そんな西川氏に、いまの俺たちの置かれている状況を気の毒がったり、憤ってくれたりする資格があるのかな。俺がちんちん財布になってしまったのは、俺より先に生まれた全ての人間の責任で、西川氏の責任でもある。

  今回の16号の旅の、西川氏は俺のパートナーだからね。本当は逆なんだろうけれども。パートナーだから協力は惜しみませんよ。今回の旅の感想をインタビューするからとかいわれても、パートナーじゃないと思ったら、ここには来ない。俺は疲れたからもう帰って寝るよという。俺は俺なりに一生懸命語っているのです。

  16号回ってきてさ、今日のお寺の住職もそうだけれど。みんな温かいというか、親切だったよね。なにかむかつかなかった?住職なんか、これが番神堂だとか、親切に説明したりしてさ。第1の旅で写真を撮ってくれたおじさんが、いい絵描けましたか?なんていったときには心底むかついた。知るか馬鹿。あんたなんかにわかってもらいたくない。俺の上司でもないし、家族でもないし、それから先、どっかで会ったとしても、たんに視界に入っただけだろうし。そんな奴にそんなこといわれたくないなという気がした。みんな俺のことを温かく迎えようとするのよね。それは違うのよといいたかった。他人に対して優しくして、そんな自分に酔っている大衆が気に入らなかった。健康第一とかいう感じで、ひいひいジョギングしているのに、写真お願いしますとか頼むと、にこにこ笑って立ち止まってくれたりしてさ。どうせ家に帰ればたいして愛してもいないかあちゃんに飯つくれと命令したり、会社では部下をさんざん利用して消費者から小銭を巻き上げているんだ。生き馬の目を抜く生活をしているそんな自分の、一服の清涼剤として俺に親切をするなという感じかな。俺はお前の生活に彩りを与える存在ではない。馬鹿にすんな。この馬鹿。あっ、これじゃ俺が馬鹿にしているのか?とにかく、そんな気持ちが強かった。でも、一応礼をいわないといけない。旅の途中で、俺、免停だったこともあるし、そんなときに不審な2人組がいるとかポリに通報されるとまずいし、結局礼をいっちゃう。だからなにかをそんな身もしらずの他人に頼んだ俺を含めてみんな馬鹿だよね。そういう感想を常に持っていました。

まるっきり赤の他人だからそうなのだろうね。初めて会ったから。それが知っている奴だったら、俺今忙しいから他の奴に頼んでとか、お前らの悪行に荷担していられるかとかいうんだと思う。人間が知り合う、あるいは知り合わないというのはどういうことなんでしょうかね。俺らは単に5本目の腕がほしいだけだった。俺と西川氏の2人してフレームに収まりたいがために、誰かにシャッターを押してくれと頼んだ。つまり実際は、俺たちから見れば誰でもいいんだ。男でも女でも、ガキでもジジイでも。でも彼らは俺たちに親切にしてくれた。それがなぜかわからない。俺が16号で描いた絵には人物なんか1人もでてこない。描きたい人がいない。いつかそのうち描きたい人がでてきたとしても、それは彼らではない。これはどういうことなんだろう。わからない……。


エピローグのエピローグ 最後の弁明

本企画遂行の途中でコモンストックでのホームページ作成の話が持ち上がり、俺とハゲとのドライブにもドライブがかかった。逆にいえば、ハゲとの旅を開始した時には、人様に読んでもらう見通しがなにもなかったということである。ホームページで発表することとした結果、ハゲが一生懸命撮影した一群の写真29枚がお蔵となった。29とは国道16号線で俺たちが通過した街の数である。俺たちは新しい街に入るごとに車をとめ、カドのとれた逆三角形の16号線の看板をその街の名前とともにフィルムに収めたのだが、それらはHTMLの粒子の荒い画面ではクリアにカムバックしてくれなかった。追憶の16号の旅もまた完結できぬままに終わったのである。


(追憶の16号/ハゲとの旅 了)



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