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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第7回:1997年3月25日

『壁の中の秘事』/65/若松孝二

この原稿を書いている3月16日現在。今年はまだ22本の日本映画しか見ていません。経済的困窮、そして、そのぶん大酒を飲んでいるということもありますが、どうやら、映画に対する情熱は、僕の中で確実に薄れつつあるようです。
しかし本当の所をいえば、僕が情熱を失いつつあるのは現代の文化表現全てに対してでありまして、それは映画にかかわらず、文学音楽絵画にも及ぶ病です。
もっと本当の所をいえば、映画以外の現代表現に関しては、もう10年も前から、とっくに興味はなくなっていて、映画だけは、黙ってぼんやり長くても2時間くらい座ってスクリーンを眺めていれば、努力なしでも終わってくれるので、なんとか、すがりついてきたというところであります。
もっともっと本当の所をいえば、映画に関しては、まだまだいくぞという気持ちがあるのですが、僕の見たい映画がかかる映画館が、三軒茶屋のアムスとか築地のバラックとか、あと、なんと池袋文芸座までもが、なくなってしまい、もうフィルムセンターと大井町武蔵野館、高田馬場ACTぐらいしか残っていないのですね。亀有名画座は健在ですけど、瀬々敬久さんたちは干されているし。これはピンク映画見からいえば邪道なのでしょうが、僕は女の人の裸が見たくてピンク映画に行くわけではない。だったら7本1万円で裏ビデオを買うよ。奥の奥まで見えるしね。
それに今年になってから、これといった日本映画は『ひみつの花園』(矢口史靖)ぐらいしか、めぼしいものはないので、見たくても見ようがないわけであります。
しかし実はこのような追い込まれつつある状況は、実は大好きで、それこそが、僕の愛する世界が本質的であることを示していると思うわけであります。達観していえばね・・・・・・。
この時代に生きる者として、僕はけっして現代に対しての興味は失っていません。僕が現代の文化表現に対して興味がないのは、それらが、現代の本質的な諸問題に対して正面から取り組んでいないと思うからです。
たしかに文化は厳しい現実に生きる人間に一時のオアシスを与えるものでありますが、それは、たとえ過酷とはいえ社会が正常に機能しているときの話でありましょう。
今みたいに、いっぺんに社会矛盾の噴出しているこの時期に、いたずらに慰安を与える機能を果たすということは、反動的であり、社会矛盾のあっち側でずるしている人たちに、とって、実にうまい話なのではないでしょうか?
メルヘンを与えるのなら、子供か老人に与えるべきです。
さっきも家のまわりを、ほんの30分間ほど散歩してきたのですが、その間に若いお嬢さんも含めて、苛立ち気味になにかぶつぶつ独り言をいっている、独り言主義者たちを五人も見かけました。電車に乗れば、機嫌の悪そうな人たちでいっぱいです。不安げな人ならもう無数。どうして現代日本の文化表現は、ヤクザや人の良さそうな巻き込まれ方の好人物や特殊学級を描いても、そのような、そこいらに転がっている、現代の気分を描かないのかな?

60年代に一線にいた表現者たちは幸福でした。彼らのまわりにはわかりやすい形で、社会矛盾や悪が転がっていた。ベトナム戦争、冷戦、核の傘、公害、文化大革命、ハンガリー動乱、労働総資本の対立などなどなど。みなさん不安でいっぱいだけど、まだまだ敗戦後の飢餓の感覚が強烈に残っていたから、それでも一緒に頑張って行動成長に邁進したのですね。
この若松監督の映画は、ヤクザもなく英雄もなく、しかしあの時代の気分を見事にすくっています。話は団地に両親と住む受験生が、粗放にセックスに生命を燃やす姉や、いい年こいて口にタオルを押し込みながら夜な夜なセックスに興じる老父母に囲まれ、欲求不満から切れてしまって、姉を犯し、余所のおばさんを暴行致死にいたらしめるというものです。
バックでは効果音で、沖縄や調布基地からベトナムへと飛び立つ爆撃機のジェット音がびゅんびゅん鳴っており、主人公のどう見ても受験生には見えない老けたおっさんの、それで俺たちは今幸せなのか? という疑問符がベース音のように通奏しておりました。
この映画は、中野武蔵野ホールで見たのですが、若いお客さんでいっぱいで、少しだけ嬉しく思いました。
(この企画連載の著作権は存在します)

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