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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第6回:1997年2月11日

『終わらないセックス』(シナリオタイトル=『夜、啼く蝉。』)/95/瀬々敬久

・・・・・・世界とどうやればリアルに結ばれるかというのを模索してたな・・・・・・大きな政治とか事件の流れよりももっと個人的な男女間の恋愛関係みたいなものの方が強いっていうか、そこの部分が浮き出て作品世界を引っ張っていくようなことをやろうというのはいつも思っている・・・・・・今はメジャーとかマイナーがなくて、全部がメジャー化しているっていうか、並列に見られちゃっているよな。だから今敵が見えない時代だと思う。ハリウッド映画がどうとか言われても逆に困ってしまうよ・・・・・・俺は自分の感性なんか一切信じてないよ。結局関係性があって、その中に生かされてるとしか思っていないよ。・・・・・・逆に嫌いなんだよ。私という確固たる個人が何よりも先にあるって考える方がよっぽどおかしいって考えているよ。映画を撮ることとか生活していくってことはもっと荒々しい行為だと思うな。飛躍する話かもしれないけど、監督を頂点とするヒエラルキーの中での映画作りまでも疑うような発想はどこかでもってないとダメだという気はするよ。・・・・・・『NEW ZOOM UP・36号』(瀬々敬久インタビュー)

・・・・・・旧来の枠組みが全て壊れ、全てが括弧付での名前でしか語れなくなっている・・・・・・困難を乗り越える知恵と勇気、それが今、試される時である。『PG9号』(賎国群盗伝・其の弐)

・・・・・・ご飯と豆腐一丁に醤油をぶっかけ、これが晩飯である。・・・・・・こういう話というのは成功したそれなりの達人が書けばそれなりの人生のヒントでも与えるのだろうが・・・・・・志半ばにしてやめていった人達の辛さは俺らが想像できるような生易しいものじゃない。俺が今も映画を続けていこうとする理由の一つはそういうこともあるかもしれない。浪花節ではない。カッコつけてるわけではない。俺はなんとか助監督を続けて映画を撮れた。それでも最初の時はこれ撮ってもう撮れないかもしれないと思った。やめるか続けるかは紙一重だ。志半ばにやめた人のことを思うと俺らは続けていこう、いかねばならないと思うのだ。・・・・・・やめること、続けること、子供を捨てることも、家を出ることも、別れることも、全部紙一重だ。・・・・・・たしかに相変わらず豆腐食うしかないのである。でもでもである。・・・・・・『PG12号』(賎国群盗伝・其の四)

昔、京都に京一会館という映画館があった。学生をやっていた頃、その映画館でバイトをしていた。・・・・・・大学に入って京一会館の近くにと一乗に下宿した。映画小僧だったのだ。・・・・・・そのうち俺は東京に出て助監督をやり始めた。何年かして京一会館が潰れたいうことを伝え聞いた。・・・・・・自分の映画を京一会館のスクリーンで見るのが夢だった。・・・・・・今でも、京一会館のことを考えると、嬉しくて、悔しくて、口惜しくて、自分が不甲斐ない。まるで映画そっくりだ。今そっくりだ。何年経っても何も変わっちゃいやしない。それでもそこから出発し、そこにまだいる俺らは、そこを背負って行くしかない。『PG13号』(賎国群盗伝・其の五)

・・・・・・ピンク映画が、ある人々にとっては耐え難いモノで差別を助長していると言われれば、その人にとってはそうであるかもしれない。こちらの出来ることはその人間に話しし意志を伝えることしかないのかもしれない。・・・・・・全てが平べったく見えるが境や差別はどこかに隠されている。そんな風景や日常の中で俺らはどこか違和感を感じる。だがその違和を感じる自己はそれこそ二項対立図式での自己保存的な自己ではなく、社会や他者や制度の中での関係値としての自己だ。・・・・・・『PG16号』(賎国群盗伝・其の六)

・・・・・・彼女たちにして見れば自分たちがかかわっている映画祭に(筆者注=ウイーン・ビエンナーレ映画祭)『高級ソープテクニック4 悶絶秘技』のような差別映画が上映されていることは決して許せないことなのだ。・・・・・・国が違うからわからないんだということを理由に彼女たちに説明を放棄するという態度は絶対に取りたくないのだ。・・・・・・差別者と捉えられ互いに傷をつけたのは悔しく歯痒い。・・・・・・あらゆる差別を越えること、それが全ての目的であり、それを今後も私は目指す。しかしそこには差異が確実にある。差異と差別のせめぎ合いだ。ウイーンでレイプシーンに反感を抱いた女性たちは「これはポルノグラフィーだから差別である」とは決して言わなかった。だから私は彼女たちを信じることが出来るし、理解しあいたいと思う。『PG16号』(賎国群盗伝・最終回)

・・・・・・自分が死んだあとに世の中が永遠につづいていくというのが怖い。死ぬのは怖くないんだけれど、死んだあとにつづく世の中というのを考えると、小学生のとき、夜も眠れなくなるほど怖かった。・・・・・・自我はないんだという内面のなさ的な発想が契機になっているんです。・・・・・・自分がない、他者との関係においてしか存在しないということに納得させられた。・・・・・・もっといいかげんな感じでやっていく方がいいんじゃないか。全部プロセスであるような気がしますよね。だからこの先のことはわからん。『ピンク・ヌーベルヴァーグ』(インタビュー/ぶちかますときはぶちかまして)(ワイズ出版)

ある・バイトで、三日に一度のデイリープレスで、月に二回の自分のページで、そして書き溜めつつある作品でと、毎日、毎日、膨大な量の文章を書き続ける生活を送っていると、文章表現の上達は棚上げしておくとしても、いくつかはわかってくることがあります。
僕は、僕にとって本当に興味のあること、すなわち、本質的な問題に関しては、自分の思考をまとめることが出来ません。逆にいえば、なんか気の利いたフレーズが浮かぶような事柄は僕にとってどうでもいいことであるということであり、それをもっと逆にいえば、永遠に考えたり感じたりし続けるモノの存在を信じているから、なにかを書き続けていくのだともいえます。
瀬々敬久という人物。瀬々敬久の映画は僕の心の琴線にそのような形で触れるモノであり、だから、今回は、彼の印象的な言葉を列挙してみるという、映画を語る上では、まことに邪道な作戦をとりました。彼の本質が、僕には語るべき言葉を見つけられなかった彼の映画自身の中、そして、この抜粋の「・・・・・・」の部分にあることはいうまでもないことです。

しかし、彼の言葉にあるように、彼が僕に想起する問題は、もともと僕のポケットの中にあった問題であり、それが彼との関係性の中においてシンクロするということです。だから、僕は彼の作品に関係なく僕の言葉を並べ立てるのです。

時々こんなことを思います。

人間は全て悲しい器。日本人も中国人もペルー人も、太郎もジョンもモハメドもみんな同じ器。同じ中身を入れてそこにある。その中身、括弧付の「人間」とでもしておこうか?
人間の中に「人間」が入っている。
人間は「人間」を入れて運ぶ悲しい器。
「人間」の意志は、人間にとってまことに過酷なモノで、人間ならだれでもいい、とにかくだれか生き残れ、そして、人間よ「人間」としてのゲームを続けろというモノ。
だから人間同士は、「人間」としてのゲームを続けるために、適者生存、優性の法則、殺し合い、憎みあい、「人間」のために人間を再生産し続けている。
愛の源は暴力であります。
「人間」が人間に牙をむく瞬間。
人間同士が「人間」を再生産するために、いかにほかの人間を疎外するか、君知っている?
人間が「人間」の名において人間を支配する。経済的に。精神的に。愛の名において。神の名において。正義の名において。愛も神も正義も「人間」の切り札。最近はもっぱら経済。
でもなぜか、人間はみんな「人間」が好き。倒錯してるの変態なの。

僕は「人間」より人間が好き。特に空の人間が好き。
「人間」という中身が詰まった人間は、工場から出荷される時の牛乳瓶の大群みたい。精悍でかっこいいけれど、陽の光の下におけば、あっという間に腐り始め、酢と水に分離し嫌な匂いをたててごぼごぼするのだ。
綺麗な水で洗った空の牛乳瓶はいつまでたっても透明で、ちっぽけな牛乳受けに二〜三本並んでいたり、道端にころがっていたりしたら、とてもキレイ。坂道をころがり続ける空の人間なら、陽の光を乱反射して、むちゃくちゃ綺麗だよ。
人間は「人間」のための悲しい器。

僕は映画や音楽や文学は人間のための綺麗な水の・ようなものだと思っています。

『終わらないセックス』は、ある男がある女を愛し、殺し、そして、また、その女と出合うという物語でありました。
(この企画連載の著作権は存在します)

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