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                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第4回:1996年12月11日

スワロウテイル

ある日の話。
ここ2〜3日の寝不足を取り返そうとして、ゆっくり起きた。14:00なりけり。今日はロックバーの損失補填のための編集のバイトもなし、映画に行くまでは、家事のみに専念する日。
寝ぼけ眼で、髪の毛だけとかしスーパーへ、週に1度の野菜などの買いだし。おっと、炊飯器を仕掛けておかなくては、帰ってきて飯がなければ狂死すること必定。
帰り道に肉屋でメンチカツとコロッケを買う。買い出しの日の定番。週に1度はこの類のものが喰いたくなる俺は幼稚だ。
野菜は味噌汁の具で補給する、大根の葉っぱ、ニンジン、長ネギ、白菜。十分、十分。
洗濯機をまわしながら飯を喰う。風呂場の足拭き、台所の足拭き。2週間ぶりに洗濯。
飯はあっという間に終了。掃除開始。エアコンのフィルター、台所の換気扇などにも手を回す。これまた、2週間ぶり。
掃除の間に湯船にお湯を溜める、掃除終了後にゆったりつかろうという作戦。
なんと雑巾掛けまでしてしまった。お湯はすでに冷め果て、熱湯をちびちび出しながらつかる。半分サウナ風呂の気分。いつもは烏の行水。風呂で汗を流すなど久しぶり。
はっと気づいて、メガネをかけ、素っ裸のまま時計を見て呆然。17:20。もう下高井戸、最終18:05には間に合わない。
すみやかに作戦変更。いわゆるロードショー館へ赴く決意を固める。新宿ならば徒歩で対処可能。往復の交通費を考えれば、下高井戸1400円も単館ロードショー1800円もかわらない。気分を取り直して、ピアを片手に湯船に戻る。あるある、新宿ミラノ座。18:50がラストだ。楽勝。
風呂上がりに一服しながらTVKを眺める。伊藤政則がVJをしている。CORRODE OF CONFUSIONというバンドのALBATOROSSという曲だとのこと。完全にブラックサバスのフォロワー。サビではBEFORE YOU GET CRAZY 〜と歌っているみたいだが、発音が明瞭でないので聞き取れない。オジーの発音はずっとずっと聞き易いぞ。ちまたに溢れる他のビデオと同じく、やたらかんたらカット割りばかりが目につくビデオで、落ち着かないことこの上なし、見ているとマジで気が狂うので消す。音楽とビデオの共存は不可能というのが俺の信ずるところ。
郵便受けに物音。夕刊かと思いきや、電気代の督促状。あれっ、落ちないはずがないのだが? 9日に再度引き落とすよし。明日でもいいのだが、18:00までなら入金できるはずと、バタバタ着替えて、銀行へ。されど銀行2分遅れでアウト。しょうがないから残高だけチェック。請求に比べて100円前後不足。俺の計算間違いであったらしい。いよいよ加減乗除もあぶない。アルツハイマー?
伊勢丹の前から新宿通りを歩き、ガード横の金券ショップに。ラッキー、ミラノ座の株主優待券見っけ。1200円でゲット。大勝ち。貧乏人にこの600円のプラスは大きい。

てな調子でようやく『スワローテイル』にたどりついたわけですが、この映画にたどりつくまでの気分には重いものがあったのであります。本日の、足拭きだ、換気扇だ、サウナだ、銀行だという偏執的な遠回りは、その表現なのです。ただただ楽しみに行くなら、僕は矢のように家を飛び出す。正直にいえば、この岩井俊二という作家に僕は嫉妬しているのです。
発端は10月22日付の朝日新聞夕刊、「加藤登喜子の男模様」というコラム。「『女』わかっている、えらい」と絶賛なのですね。僕は女の人からほめられる男には無条件で嫉妬します。
それでお手並み拝見というか、『スワローテイル』にたどりつく前の約一月間。僕は下拵えとして、岩井さんの作品を観ておきました。『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(93)『UNDO』(94)『LOVE LETTER』(95)はすでに消化していたので、『FRIED DRAGON FISH』と『PICNIC』の96年作品の2本を池袋のロサで見ました。岩井さんは、この96年だけで3本撮っているのですな。一本も撮れないで何年も過ぎている映画監督たちの嫉妬は、僕の嫉妬の比ではないでしょう。
ところで、元来の、映像感覚の鋭さ、特に燐光色というか、ガスバーナーの青に不純物が混じった時のオレンジのチリリみたいな色使いにはあいかわらず舌を巻きましたが、別にスンげぇとは、思わなかった。それにもまして、この2本に流れる、救ってくれるなにか大きなものを待っているというような感触には違和感を禁じ得なかった。簡単にいえば、両作品とも、死こそが救いである、というペシミスティックな感覚で満ちているのであります。
ちまたに溢れる、機械仕掛けの人間たちがただただカラカラと空虚な音を立てて動き回るだけの映画たちよりはよっぽど上等ですが、人生が死を待つだけだ、では、それが真理なだけに藝がないな、と、思いました。
生の謳歌の中に、真実のテイストを隠匿し、生の本来的な切なさを感じさせるのが藝でしょう。
(真実だって!!野暮な言葉だなぁ!!!)
『PICNIC』というのは、ひたすら弊の上を歩くという映画なのですが、端役で鈴木慶一さんが出ているのには微笑みました。ハチミツパイ(後のムーンライダース)のデビューアルバム『センチメンタル通り』のA面1曲目は「弊の上で」という佳曲です。岩井さん、同時代ですね。もしかしてイメージの源泉はこの曲ズバリ? あれも暗い曲でした。もちろん大好きです。

さて、スワロウテイル。

岩井さんは、年老いてしまった日本社会のなくした混沌としたエネルギーのようなものを、アジア(日本もアジアですが、この場合日本以外のという意味のアジアです)の方々に中に感じているようです。しかし僕はそう思わない。この映画にそういうキャラクターが出てこなかったのが実に不思議なのですが、僕の感触では、バイタリティはともかく、家とか、一族とか、血族とか、民族とか、そのような呪縛に満ちた価値観の効力は、あちらの方々のほうが引き続き強いと僕は思う。呪縛の規則の中での放埒になんの意味がありましょう? もしかしたら、エネルギーと自由は反比例するのかもしれないけれど、僕は元気がなくても、自由なほうがいいと思う。

それと、

日本人の、金が万能である、という醜悪な価値観の代弁を、たとえ、方法論的な手法にせよ、アジアの方々の役割としてふるのはアンフェアだと僕は思う。アグリージャパニーズはアグリージャパニーズが演じて、それが、まだまだルーツフル(ROOTFUL)なアジアの方々にはどう見えるのかいうドラマにしないと、アグリーだけでなく、あほうな日本人は、これはあんたの話なのよ、ということに気づきもせずに、あちらの方々って恐いわねぇ。汚いわねぇ。新宿とか大久保とか恐いからもう行かない。なんて自己尊大から起こる偏見を自己増殖するだけではなかろうか。

それと、

チャラの歌うシーン、ビデオクリップも一遍に作っちまおうという作戦が見え見え。ビデオの悪弊を踏襲して、そこだけやたらとカット割りをするから、そのシーンに至るまで観客が積みあげてきた、これまでのエモーションの蓄積が崩れる。映画は集中覚醒心理運動型の表現であり、拡散反射神経随意運動型の表現ではない。猛省されたし。

の、3つの違和感をのぞけば、

感服。



特に、いつも一番クールで、ルーツフルとは反対の意味で弱いものに優しく(自分の身内だけに優しいわけではないという意味です)、金にも踊らされなければ、体を酷使する労働もいとわない人物(演じているすんげぇ格好いい男優さんはホンコンの人だそうです)が実は超1流のヒットマンなんですね。つまり、1番高潔な人物に殺し屋を持ってきている。ここは、岩井さんの人間観社会観などを推察する参考となる、たいへん恐い設定ですが、それで、結果として、彼が、幸薄き兄妹を生と死に永遠に分けるのである、と、暗示させて終わるラストには驚愕しました。

彼がこれから殺そうという人物が、自分の愛する(これは直接的な愛情ではなく、実に大きな意味での愛情です。なんたって大きな人なのだから)女性の兄だと知っていれば、もしかして、この仕事は受けないのかもしれない。

それが、知ることの大事さを、知識の大事さを表現しているのか、それとも、知っていようが、いまいが、運命はあるのだというような、もっと大きななにかを表現しているのか。それは僕にはわかりませんが、映画のその部分に穴が空いていて、びゅーびゅー風が吹いていました。
それにしても、この映画のどこに、「女がわかっている」というシークエンスがあったのだろうか?そんなこともわからないのは、僕が「女がわかっていない」から?(この企画連載の著作権は存在します)

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