ROCK BAR PRESS ROCK BAR PRESS

                     1996年10月11日開始

                               火だるまG

第2回:Focus→薮の中→ロリータ・バイブ責め(シナリオ名=秘密の花園)

佐藤寿保監督について書こうと思いました。それで、まず井坂聡監督のデビュー作「Focus」(1996年)を見に行きました。前回お話しした「Kids Return」などを見るために出かけたテアトル新宿で上映前の予告編を見たり、新聞の紹介記事を読んだりして、この作品がビデオや盗聴器というような、佐藤寿保作品でくり返し登場する世界を扱っていることを知っていたからです。
金券ショップで株主優待券を入手し、900円で見てやるつもりで部屋を映画開始前の30分前に出発しました。(僕の部屋はテアトル新宿まで徒歩10分です)しかしながら、このような甘いもくろみはえてして成就しないもので、優待券は売り切れ(おそらく「Kids Return」のかけ込み需要が発生したと推察します)、これは激痛だなと思いながらも、1800円払いました。心と体がその気になってしまえば、僕の辞書にはブレーキなどという言葉は存在しません。
最初に立てていた作戦は、「Focus」をけちょんけちょんにけなして、おもむろに佐藤寿保作品に話を移行するというものでしたが、この見通しも甘かったようです。
「(前略)浅野君と白井さんの絶妙の掛け合いは演出家が口を挟める領域ではなかった。いいプレーヤーは自分で考える。(中略)選手がよければ監督は何もしなくてもいいんですよ」
これは10月15日付、朝日新聞夕刊での、井坂監督の発言の引用抜粋ですが、まさにその通り、監督の想像力をこえた、そしておそらく、役者たちの想像力さえもこえたところで、この作品には同時代のリアリティをつかんだ部分があります。
部分といったのは、この映画がおもしろいのは、最後の10数分間だけだからです。
簡単に筋をいうと、盗聴マニアのフリーター(浅野忠信)がテレビのワイドショーの取材を受けたゆえに、ディレクター(白井晃)にやらせとプライバシー公開を強要され、その過程で偶然傍受した、暴力団関係の電話交信から、拳銃を手に入れてしまい、クライマックスでは、ディレクターの脅威的な無神経に切れたフリーターが、その拳銃で殺人をおかし、最後に刹那的な自殺をするというものです。
フリーターが切れた後からのシーン、約20分弱は圧巻です。もう会話がセリフになっていません。脚本もこえています。浅野忠信さんはそこいらへんのどこにでもいる、やや自閉症気味の、ナイーブな若者そのものです。「ふざけんなよな〜。てめぇのせいじゃねぇかよ。なんで俺がこんな眼にあわなきゃいけねぇんだよ」
井坂監督としては、厚顔無恥な世間を代表するディレクターが発する、そこしれぬ不気味な悪意のエネルギーのような放射線が、一人の若者を破滅に追い込んでいくさま、そして、若者が破滅する前自分をそのような最悪の状態に追い込んだ、世間に対して放ったスワンソングが、押し黙って一時反省したように見える世間には、実は爪の先ほども届いていなく、かすり傷ほどの痛みをも与えることはできないという様子を描きたかったのでしょう。これも僕の推察です。
そして、フリーターの突然の自殺に、取り残されてほうけたディレクターの最後の言葉に、そこいらへんを象徴したつもりなのでしょう。
「なんなんだよ。これは」
僕の理解があたっていると仮定して、そういう意味では、この映画は成功しているがゆえに失敗しています。簡単にいえば、今時こんなに、世間がそれを知りたがっている、俺が世間のニーズの代表などといいながら、暑苦しく他人様を押しまくるような、一時前の業界人の典型のような人物が存在するとは思えないからです。もし、そんな奴がいるとすれば、そんな奴のすさまじく病んだ神経にこそ、なんらかのリアリティがあるはずで、そこに焦点を合わせていけば、このシチュエーションにも、もう少しリアリティを感じることができたかもしれませんが……。
それでは、僕が、圧倒的にリアリティを感じたのはどこか?
それは、切れた前と、後での、フリーターの言葉の質の間に存在する、圧倒的な落差です。切れる前は慇懃無礼とも思えるような徹底した敬語、そして、それからはさっきいったような言葉。
「いる、いる。こういう奴いる。いったいこいつは、通常自分の心の中で、どんな言葉を使って独り言しているんだろう? 俺なんて、こいつの独り言の中では、あの、えらそうなジジイのデブがよぉ〜、なんていわれているんだろうな。なんて感じさせる奴いる」
僕も、心の中で、思わずそのような独り言で快哉を叫んでしまいました。
あえていえば、井坂監督も、ディレクター役を演じる白井晃さんにも、そのような思考経路を持つ若者に対する想像力が徹底的に欠如していたがゆえに、ことがアナーキーな状態におよぶと、全く対応不能の状態に陥るディレクターの描写に、それなりのリアリティが発生したような気がします。これは、親切な深読みで、そんなことが監督のテーマではなかったことは明白ですが……。
映画は基本的に、シーンを重ねて創ったドラマです。そして、僕はシーン、シーンごとに、「こんな奴はいねぇぞ」とか「うん、これはある」などと、独り言ながら映画を見つめます。
前置きが長くなりました。
それで佐藤寿保監督です。
黒澤明監督の名作「羅生門」(1950年)については、それが芥川龍之介の「薮の中」という短編小説を原作にしていることをも含めて、有名な作品なので、僕が説明する必要はないでしょう。ピンク映画界の異才、佐藤寿保監督は、そのメジャーデビュー第1作として、同じ原作の映画化(1996年)を選びました。これがまず、最高に痛快です。
「そうか、世界の黒澤がそう撮るならば、俺はこう撮るぞ」
監督の独り言が聞こえてきそうです。
そして、もちろん、佐藤監督作品は、黒澤作品には、およびもつかない。これはまさに歴史上、ドンキホーテ以来の大敗北です。
そりゃ、そうです。相手は日本映画の黄金時代に、京マチ子、三船敏郎、森雅之などという、歴史に残る大俳優を起用して制作にあたった、ヴェネチア映画祭グランプリ獲得、世界中の映画ファンの常識ともいえる傑作です。こちらは、メジャーデビューとはいえ、席数48の新宿東映パラス3での単館ロードショー。それも2週間は続かなかったと思います。僕が見た平日の夕方の回では、お客はちょうど9人で、しかもそのうちの4人が、これはつまらんなどと独り言ながら、途中退場しました。俳優だって、だいたいが、時代劇などをやらせることが、無理だという、足のひょろ長い、若い役者さんばかりです。
しかし、それでも、佐藤監督は確実に狙いに狙った一矢だけは報いているのです。
佐藤作品「薮の中」を見て、「あっ、そうか、俺が『羅生門』に納得できなかったのは、こういうことだったんだ」と独り言した瞬間があります。
「羅生門」では、薮の中で起きた事件について、当事者たち、目撃者たちの見解が徹底的に相違し、それで目撃者たちが神経症的に悩むという構造で映画が語られていきます。悩むのも、志村喬、千秋実というような、戦後を代表する大俳優たちです。
しかし佐藤作品「薮の中」では、真相が分からずに悩むのは事件で殺害された、あるいは、自害した、どっちにしても、死んでしまった(らしい)、女性の兄貴なのです。
もう10年も前に「羅生門」を見て、他人様のことで、こんなに人間悩んだりするものかしら? それとも、これは喜劇なの? 熱い風呂に我慢してはいっているような、両名雄の顔を見ながら、そんなことを思っていた、自分に久しぶりに遭遇したと、そういうわけなのです。
もしかして、これも、佐藤監督の狙いではなかったのかもしれませんが、僕はそんなことを感じました。一言でいえば、これは、「あり」だ。
だいたい、僕が佐藤監督を知り、その作品を見れる範囲で見るように心がけるようになったのは、「ロリータ・バイブ責め」(脚本名=秘密の花園)(1987年)を、ピンク映画界の最後の砦、亀有名画座で見た1995年の夏以来です。だから約1年の浅いおつきあいですが、これまでに、12本ほど見ました。
冒頭で触れたように、佐藤監督は、ビデオ、盗聴、カメラというような、メディア系の道具立てが大好きで、ワイドショーのレポーターの話でいえば、落ち目の人気に悩む美人レポーターが、妹をアシスタントディレクターに誘拐させ、強姦させて、そのビデオを番組で流し、解放キャンペーンと会わせて、センセーショナリズムで再浮上を狙う「美人レポーター 暴行生中継」(脚本名=Love Obsession)(1989年)などという、作品もあります。
「ロリータ・バイブ責め」にこういうシーンがありました。
なんたって、ピンク映画ですから、主人公(伊藤猛)は暴行殺人魔なのです。彼は、被害者の断末魔の表情をポラロイドで撮影するのが趣味なのです。彼がそのような性格に至るには、それなりの状況説明がされているのですが、なんたって1本60分ジャスト、制作費350万円(推定)の世界ですので、そのような書き込みが命という世界ではありません。シーン、シーンのリアリティだけが頼りの世界。
それで、主人公は、こいつには手をかけないだろう、だって、さっきまで、友達みたいなタメ口をきいていたんだから、という少女もやっちゃうのです。まずおびき寄せる手口。手紙である場所に呼び込む。するとそこにウオークマンが置いてある。かぶる。聞く。そのウオークマンの命令通りに、少女は動く。(この時のウオークマンの声は、被害に遭う少女の友達の声で、その少女こそがこの作品のヒロインなのですが、そこいらへんの経緯は割愛します)それで、暴行魔のアジトに着く。それが、大型トラックのコンテナの中なのです。彼はそこに住んでいる。しかも、それがビルの屋上に駐車してある。実に不思議な状況設定です。
それで、彼は、少女とけっこう楽しそうにセックスする。これはピンク映画ですから、局部以外はばっちりです。あぁ、この娘とは純愛するのかしら? 人間が甘い僕としては、少々感傷的な気分に浸る場面です。それで、正常位でフィニッシュして、そのまま彼は、枕元に手を伸ばす。そして、なんかよくわからないものを、シャカシャカとシェイクする。これが、ポンプ式の殺虫剤のスプレーなんですね。昔よくあった、使いきりでなく、農薬を補充するタイプ。それで、セックスの余韻に、すっかり浸っている少女の口に、その先端を押し込むと、グッとポンピングする。少女はなにをされたのか、わからない。口中全体に白い液体、これは完全にミルクですが、劇中では農薬です。その農薬があふれる、少女は当然無意識に飲んでしまう。激しい苦悶の表情。今度は胃の中から真っ赤な液体が口の中に返ってくる。これは完全にストロベリージュースですが、劇中では鮮血です。それで、ジ・エンド。
僕は先ほど、映画を見るたびに、「あり」とか「なし」と勝手に独り言している、といいましたが、今いったように、このシーンを理解するのは、瞬間的には不可能でした。なにがなんだかわからなかった。
映画を見ていて「?」の瞬間ぐらいドキドキして、その後で、再生感を感じることはありません。そのような再生感が、このようなバイオレンスシーンにより、もたらされたようなものでなければ、もっといいかとも思いますが、現代を語る場合に暴力抜きでは、ポロポロ落ちていくものがありますし、殺虫剤をシャカシャカ、無表情でシェイクするシーンには、そのサウンドに、実に現代的な、悲喜劇的なリアリティさえ感じてしまいました。つまり「あり」です。
僕は、これからも佐藤寿保監督作品を見続けて、多くの「?」や「あり」に、出会いたいと思います。
今回の僕の話はここまでですが、ピンク映画では、お客さんを呼び込むためにでっち上げる公開名と、シナリオタイトルの間に、大いなる冗談的飛躍がありますので、ピンク映画を取り上げる場合には、できるだけシナリオ名も、お知らせしていきたいと思っています。そうそう、これから、年末、年始にかけて、亀有映画座では、佐藤監督を含む、ピンク映画界の四天王と呼ばれる監督たちの、長期特集が組まれます。亀有名画座は、ピンク映画館としては、最高に安全で清潔な劇場ですので、女性1人でも、まず大丈夫、あぶない人がいる確率は、通常の映画館と同レベルです。テレビや現代日本映画に物足りなさを感じているあなたならば、足を伸ばしてみる価値があることは、僕が保証します。なんたって、4本1000円で、お買い得です。ピアにも情報は載っていますよ、もちろん成人映画欄だけど。それでは、また。
(この企画連載の著作権は存在します)

ROCK BAR PRESS


バックナンバーのページへ/メールを書く  
headlineのページへ a.gif音楽中毒=Ak.gif酩 酊料理人 ・工

cs2.gif


火だるまGのページの最新号へ