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日本映画に花束を!!

                        1996年10月11日開始

                                  火だるまG

第1回:Kids Return

僕の趣味は、新旧問わず、日本映画を見ることです。1年に200〜300本の映画を見る生活をここ7年ほど続けています。今年、1996年は10月7日現在で174本の日本映画を見ています。3年前にビデオやテレビ録画で見ることは止めると決めました。僕は映画館で映画を見ます。
役者さん、監督さん。登場人物に日本映画関係の人が多いから、僕には「徹子の部屋」を録画して見るという習慣があります。日本映画関係の本もけっこう読みます。役者さんの書いた本。監督さんの書いた本。この嗜好を自分なりに解説すると、人間理解のマルチメディア作戦と、まぁこうなります。スクリーンに映る、ある役者さんの演技上の表情、声。彼の文章に写る、彼の思想、感情。そして徹子さんとの会話に映る、素(ある程度これも演技とは思う)の彼の表情、声。それらを総合して、僕は彼のことを考え、そして、彼のことを考える延長線上で、人間のことを考えます。僕は、この世の中で、人間よりもおもしろいものを知りません。ロックを聴き、映画を見、酒を飲むのも、人間に興味があるからです。
途上の僕ですが、いつかはその先で、小説を書きます。
過日「徹子の部屋」に淀川長治さんが、出演しました。印象に残っている「日曜映画劇場」の解説として、徹子さんが、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(1960年)をあげました。この作品については、あまりにも高名な作品なので、説明は割愛します。
最後のシーン、モーリス・ロネ(フィリップという役名だったのではないか)を謀殺し、彼の富と名声と美しい恋人を手に入れたアラン・ドロン(たしかトムという役名でした)。彼はリゾートホテルの海辺のラウンジ(みたいなところ、このみたいなところというところが、今回の僕のお話のポイントかもしれません)で、祝杯をあげます。しかし、その時には、彼が売り払って金に換えるために、引き揚げさせたフィリップのヨットのスクリューにからみついた一本のロープに引きずられるようにして、キャンバスシートかなにかでくるんで地中海の奥底に、完全犯罪したはずのフィリップの死体があがり、警察が動き出したことを彼は知らない。てな、話なのですね。その時、シャンパンのグラスの透明の先に、ヨットが映っていて、それが死んでもトムにつきまとうというフィリップの亡霊をあらわしている。これはホモセクシャルな二人の男の心中の話なのだ。と、淀川さんは解説し、はぁ、映画にはこういう見方があるのだ、こういう風に映画を見ている人もいるのだと、感心したと、徹子さんはいったわけです。
僕も感心しました。さすがに映画に人生を預けた人は違う。いや、プロは違う。ただし、それは、解釈にではなく、映像で記憶するという才能についてです。
先述したように、僕は浴びるように映画を見ていますが、大口をあけ、ぼーっとしているだけで、ほとんど、ほかのことを考えていたりする。もちろん、その画像が僕に喚起する、イメージや感情を味わっているので、これは、これで、映画を見ている行為には価すると、自負はしているのですが、映像で記憶などできたためしがない。
そのような、能力が欠如した僕が、映画について書こうというのだから無謀といえば、無謀です。
それでは、僕はなにを書こう。
僕はイメージを書きます。その映画が僕に喚起したイメージや感情を書きます。おそらくこの連載は徹底的に主観に徹するものとなるでしょう。
北野武監督の第5作「Kids Return」は、おそらく初めてといっていいぐらい、商業的にも成功した佳作です。しかし、世間はこの映画のなにを見て、それを傑作と呼ぶのでしょう。
僕なりに類推するに、今まで北野監督が撮ってきた作品に比べ、テーマがより市井の人々の生活に近づいた、いわゆる、親しみやすさという感触が、人を呼んでいると思います。
僕も、そのことには興味があります。破滅願望の強い窓際族のヤクザとか、サーフィンに熱中する聾唖者の青年とか、そういうエキセントリックなヒーローを描いてきた監督が、どこにでもいるような、落ちこぼれの高校生の欲求不満、自我肥大などをどうして描く気になったのかしら? やはり、事故の関係? 死生観が変わったの?
もちろん勉強ができないから、勉強をすることによって将来得られるような人生の結果に興味がもてないからといって、ヤクザになったり、死ぬほど苦しい練習の伴うボクサーの道に入るような高校生は普通とはいえず、やはり、エキセントリックであることには間違いがないのですが、それでも、相手は高校生です、人生経験が足りません。それにスポットをあてても、たかがしれている。
僕はこの映画に嫌になるほどの悲しみを覚えました。それは、つまらないからではない。あまりにも露骨な、人間描写の容赦なさに、息苦しかったからです。
僕は、この映画を、男たちの無意味な嫉妬のくり返しに対する、自己悔悟と、そんな情けない先輩たちを乗り越えて、未来を紡いでいくべき、後輩たちへの祈りの映画と見ました。
キーポイントは山谷初男さん演じる、ボクシングジムの会長と、もとは有望なボクサーだったというモロ師岡さん演じる先輩でしょう。彼らのスタンスの自己矛盾は徹底しています。彼らはボクシングそのものが大好き。だからだれもボクシングをやらなくなって、入門者がいなくなったり、闘ってくれる人がいなくなったりすれば、生きてはいけない人たちです。しかし、そこに有望な若者が入ってくれば、今度はその若者の失敗を望んでしまう。昔はボクサーだった(と思われる)会長や、もう負けてばかりで、ただただ、ボクシングにすがりつき、ボクシングのみが自己存在の証明となっている先輩には、無限の可能性をもつ若者は、純粋に嫉妬の対象となるわけです。
会長は、酒を飲むな、女を抱くな、煙草を吸うな、俺はお前のためにいっている、まるで口うるさい教師のようですが、本当の教師なら、酒、女、煙草というものが、ボクシングに対してどのような否定的な可能性があるのかを教え、あとは、自分で気がつくかどうかだと諭すべきで、頭ごなしに怒鳴りつけたりしないものです。先輩は酒、女、煙草をやっても、どのようにごまかせば、ボクシングを続けられるかについてのノウハウは、したり顔で伝授しますが、若者の自己思考、自分の頭で考えるチャンスを奪っているという意味では同じです。彼らは、しかもそれを確信犯でやっている。彼は若者がまだ間に合う段階で、自分の足で歩き、自分の言葉で語り、自分の頭で考えるようになるのが怖くてしようがない。なぜなら、それは、彼らができないことだったから。そしてそのことがわかったのも、手遅れになってからだから。彼らは、若者がいろいろなことに気がつくととしても、それが手遅れになってからであることを、望んでいます。
そしてもちろん若者は失敗します。その失敗から、ようやく自分の頭で考えるということを学んだ若者の「まだなんにも始まってはいない」という言葉に希望を託して、映画は終わるのです。さぁ、本当に間に合えばいいのですが。
どうです、見事に映像についてのコメントがありませんでした。ラストシーンの校庭の場面について語るのは、僕の任ではありませんので、場面は限定できませんが、僕は山谷初男さん、モロ師岡さんの、サディスティックとマゾヒスティックが、ブレンドした死んだ眼が忘れられないといっておきましょう。そして、それは北野武監督の眼であり、もちろん、僕の眼でもあります。
「日本映画に花束を!!」の第1回はこれで終わりです。この連載企画では、基本的に最近見た映画について書いていこうと思います。しかし、見たからといって、書こうと思えるだけのイメージが浮かぶ映画ばかりではありませんので、その、場合には、昔見た素晴らしい映画について書こうと思います。それではどうもありがとうございました。サイナラ、サイナラ、サイナラ。(淀川先生にも花束を!!)(この企画連載の著作権は存在します)


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