下野谷(したのや)遺跡の発掘現場

 早稲田大学東伏見グラウンドの南側で石神井川と青梅街道に囲まれた地域は、以前から縄文時代の竪穴住居跡などが発掘され、下野谷(したのや)遺跡として知られていました。保谷市遺跡調査会は昭和47年から数回にわたってこの地域の発掘を行い、また早稲田大学調査室も同大学の学校地の発掘調査を行ってきました。その結果、富士見池近辺の練馬区西方を含む東西約600m、南北約250mのU字型の台地(約10万平方メートル)に、かなり大きな集落が縄文時代中期にあったと推定されていました。

 最近、この下野谷遺跡のほぼ中央にある東鳩製菓保谷工場跡地とそのすぐ北側の二カ所(約8千平方メートル)で、保谷市が発掘調査を行い、約80戸の竪穴住居跡そして百点に及ぶ土器などの遺物が出土しました。これらの分析から、遺跡全体では600戸ほどの竪穴住居があると推定され、青森市の山内丸山遺跡には及ばないものの、縄文時代中期に一度に百人以上が生活する大規模な拠点集落があったことが確認され話題を呼びました。このニュースは、11月5日付け朝日新聞の東京むさしの面に大きく取り上げられました。

 現場への行き方は、西武新宿線東伏見駅の南口から早大グラウンド通りを5分ほど歩くと石神井川に架かる橋に出ます。この橋を渡ると道は坂になり、それを登り切ると小さな四つ角に出ます。そこを左折すると、道の左右両側に白い塀で囲まれた発掘現場が見えます。早大側が第一現場で、青梅街道側が東鳩工場跡地の第二現場です。

 今回、発掘された竪穴住居は4-5千年前のもので、直径が5-7mで、多くのものが年代別に重層した状態で発見されたそうです。さらに、大型の土器を土に埋めて、その回りを石で二重に囲った直径1m以上の「石囲い埋よう炉」が見つかりました。ある文化財保護委員の方は、この炉を中心とする竪穴住居の円形の床を現場で見たとき、まさにここが縄文人の生活の場であり「数千年前のこの地の縄文人が現実のように頭に浮かび、感動を覚えます。」と書かれています(1996年11月1日発行の「ほうやの教育」第62号より抜粋)。「石囲い埋よう炉」には多摩川の石が使われていたそうで、多摩川からせっせと石を運んできた縄文人の姿が目に浮かびます。竪穴住居以外にも、環状集落の広場や墓も確認されたそうです。また、柱穴が見つかり、なんらかの床上建物の存在が予想されます。

   竪穴住居と共に、土器、石斧、土製の耳飾り、玉、石製のペンダントなどのさまざまな遺物が出土しました。土器は形式の異なるものが混在していて、広範な他地域と交易が行われていたものと思われます。下野谷遺跡が関東でも指折りの大規模な拠点集落だったことをうかがわせます。

 今回の発掘では、けものを捕獲するための落とし穴が3か所、さらに約30か所の野外調理施設も発見されました。これらは6-7千年前の縄文早期後半のものだそうです。また、旧石器時代の黒曜石のナイフ型石器も見つかり、縄文中期だけでなく旧石器時代と縄文早期後半にも集落が形成されていたことが判明したそうです。ここはよっぽど住み易い場所だったんでしょうね。現代でも、絶望的に狭くて、見通しの悪い道路事情を除けば、保谷は非常に住み易い所なんですが。縄文時代は自動車なんかなくて、さぞかしのんびりしていたことでしょう。

 11月1日発行の「ほうや市議会だより」(No131)には、中味とは全然関係ないのですが、下野谷遺跡の住居跡の写真が表紙にでかでかと使われていました。保谷は東京の中でも相当知名度の低い市で、「ほうや市」と聞いて「えーと、埼玉だっけ、東京だっけ?」というのはまだいい方で、「あれ、そんな市あったっけ?」という場合も少なくありません。「ほうや市議会だより」の表紙から、下野谷遺跡をこの状況を打破する切り札にしようという市関係者の意気込みが伝わってきます。しかし、今回発掘された東鳩工場跡地は、大京観光の開発地でマンションを建設する予定だそうです。勿論、重要な遺物が出たことで、何らかの形でこれを保存しようという声は高まると思いますが、保谷市の土地ではない以上いろいろと難しい問題が出てくるのが予想されます。

 私としては、一部でも発掘現場を保存するのが望ましいと思いますが、それとは別に、保谷のどこかに下野谷遺跡の集落を再現した「縄文の里」のようなものを作って欲しい。そこに縄文下野谷資料館を作って、今回の出土遺物を展示して無料で一般公開すればいい。ついでに、縄文時代の生活体験ツアーを企画したり、縄文時代の食事を再現したレストラン「竪穴」をオープンしたり、勿論、お土産には縄文土器風茶碗とか縄文風ペンダントなんかを揃えて、縄文文化に気軽に親しめる一大縄文テーマパークを作ってしまうのはどうでしょう。山内丸山遺跡の発掘以来、全国的に縄文ブームが起こっていて、一度はそういう遺跡を見てみたいという人は多いはず。東京近辺にはそういった古代のロマンに触れられる場所は少ないので、「青森まで行くのは大変だけど保谷ならちょっと行ってみるか」なんて感じで意外に人が集まるんじゃなかろうか。さらにバブル崩壊後、休日の家族の行楽はどんどん近場に移ってきているので、その辺も追い風になるでしょう。また、小学校の勉強を兼ねた遠足の目的地としても十分需要が見込めるし。そうやって「縄文の里」がヒットすれば、保谷の知名度もぐっと上がるはずです。なによりも「汚職」や「官官接待」といったダーティなイメージではなく、「縄文文化」「古代のロマン」んーんなんだかアカデミックというプラスのイメージを保谷に持ってもらえるのは大きいでしょう。勿論、そこでの収入は保谷の苦しい財政状況にも幾分かの足しになるでしょう。まさに縄文で街おこしってやつですね。

 この項を書くにあたっては、1996年11月5日付けの朝日新聞と1996年11月1日発行の「ほうやの教育」第62号を参考にしました。

96年12月

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<ひばりが丘通信>