神奈川月記9303

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冠省
付き合いの浅い人と話してて趣味は何ですかと見合いか面接のように訊かれ,返答に窮することがあるね。ありませんか,僕はあります。
ここで「悪趣味です」といなすのも一興だけれど──けっこう受ける。やってみなさい──はてそう言やあ何だろうと心中おだやかならずその晩ねむれなくなったりしないしない。

一般に趣味というと,蒐集モノ・創作モノ・鑑賞モノに大別できる。しかしこのうち鑑賞モノはあんまり「趣味」の範疇に入れたくない,つまり読書とかレコード鑑賞の類だ。まだこんなのを履歴書に書いちゃう奴は居るのかな。
だいたい趣味ってなあ手段が目的になって発生するんだな。
例えば激安ラジカセなんぞで「音楽鑑賞」していたのがだんだん良い音で聴きたくなり,アンプを買いぃのスピーカを換えぇのする内に手段だった筈の「オウディオ」が目的と化す。遂にはハードに合わせてソフトを選ぶまでになる。また「渓流釣り」の足のつもりだった4駆の「ドレスアップ」に夢中になったり,せがまれて厭厭つくった犬小屋が元で日曜大工熱に憑かれたり,「天体観測」の望遠鏡がいつしか「お向かいの女子大生」専用になったり,あ,これは違うか。

よく言われることだが趣味は実益を兼ねてはいけない。したがって健康の為の「ジャズダンス」や「ジョギング」は邪道であり,ましてや値上がりを見越して集める「テレフォンカード」に至ってはコンゴ動乱である。
更に何らかの形で残らなければならない。鑑賞モノが趣味として成り立ちにくいのがこの点で,せっかく芝居を観ても記録を録るか感想文を書くかしないとただの思い出に堕してしまう。
まるっきり痕跡の残らない「趣味」など存在しないとは言わないが──普段着でするヨガなんかそうかな──ある程度ひらかれていないと第三者の共感を得ることができない。趣味は自己満足かもしれないが,自己満足は趣味ではないのだ。

ところで蒐集モノが趣味としての体裁を得るには或る程度のヴォリウムが必要だ,対象が絶版品であってもね。星新一の言う通り(このひと外国のひとコマ漫画の蒐集家)やはり1000点を超えて初めて一人前と言えよう。

さあ,ここで僕の蒐集力の大半を費やしてせっせと溜めてきた落語の話だ。即ち,僕の落語ライブラリもとうとう1000タイトルを数えたのだ。う-む,偉い。1000を超えるまではと誰にも漏らさず謙虚に慎しくしていたので──嘘つけ──僕にこんな秘密があろうとは神の味噌汁

とは言うもののこの蒐集が僕の「趣味」にまで昇格しているかと言うと,ちょいと疑問符が付く。まだ落語を聞く為の「手段」の域を脱し切ってはいないからだ。
V系A系とも再生率は非常に高い。特に風邪を引いて寝ている時やテレビを観る気のしない時(近い将来で言うと浩宮の披露宴・近い過去だと裕仁の葬式)などは殆ど24時間体制で視聴する。

僕が落語を聞くようになったのは直接的には偶然テレビで観た枝雀の破天荒なおもしろさのせいだが,これは予備校の時で,下地には小学生の時に兄の本棚から盗み読みした興津要篇の『古典落語』があった。
『古典落語』は文庫のくせに正・続・続続・続続続・続続続続・大尾から成る全6巻もの大部である。後に自分でも買い求めて一時は殆どバイブルだったけれど,どうも小学生には難解な噺が多かった。解し始めたのはやはり枝雀・志ん朝・小さんで聞き直してからである。
大学時代を過ごした山口では民放TVが僅か2波,僕はFM音源のヒットパレイド作りの方に傾倒していた。だから落語はほんの時たま耳にするくらい,それでも当時は『FMステレオ寄席』なんてのを年に何回かNHKがやっており,ここで小三治を取り込むと同時に落語のエアチェックが特別のことではなくなったのである。卒業間際にはAM放送からの録音も(ただし有名どころのみ)心掛けるようになっていた。

ビッグネイムの高座ばかりよっていてもそこそこカセットが溜まってくる。と,あの『古典落語』全話網羅の野望がふつふつと湧いてきた。
あんまり酷いのやサゲまで行かないで切られたのはさすがに省くが二流の噺家でも良い,少少出来が悪くてもまだ持っていない噺をやると録っておく。
ここにおいて「落語ライブラリ」が開設されたのである。

落語ライブラリと書いたが本来は「お笑いライブラリ」で,いわゆる演芸の全てが対象なのだけれども,繰り返し視聴に耐えるという観点から9割9分落語であり漫才・コントは例外的な存在だ。
落語の中でも9割9分が古典落語である。新作が何故に少ないかと問われれば,おもしろくないからと即答できる。
古典・新作はどこで判る,通常(演芸界での通常だけど)遅くとも昭和の初めまでに成立した噺を古典と呼ぶようだ。新作で稀に良いのも設定や筋立てを古典に寄せて拵えたものに限られる,上出来の時代劇みたいにね。
数百年を経て生き残れるというのは日本人の本質を捉えているからこそでありそのアプロウチのパタンはほぼ出盡くしていると見て差し支えない。新作の割り込む余地は無いのだ。勢いくだらんギャグを寄せ集めたくだらん新作ができあがる。

お笑いは固より映画・演劇・文筆に至るまで優れた構成の送り手は概ね落語好きで,その影響が色濃く見て取れる。
が,実は落語の素養なくして笑いを取れる芸人が既にひとりだけ現れている。その名は松本"ダウンタウン"人志。ジャジャン,遂に登場という感じだね。あやつのギャグが如何に新しいかはこういう所で計れるのだ。

落語にはいったい何話あるのか。
志ん生は高座で4000話あると言ったが──怪しいなあ──僕の感触では2000くらい,もちろん同工異曲や小咄同然・今となっては理解不能なもの・箸にも棒にも掛からない屑噺を含んでの数字である。枝雀に依れば300から400,これは何とか高座に掛けられる水準のものを想定しての勘定だろう。
普段ぼくらが耳にするのはテレビ・ラジオを通じてであって,放送コードに堪える噺とならば更にその10分の1といったところではないかしらん。糅てて加えてどっかんどっかん爆笑の嵐を生むものなんて,まぁ,数える程にしか無い。
僕の1000話だって言うまでも無く同じ噺が盛大にダブっている。
尤も1話1録音などナンセンス以外の何物でもない。いみじくも古典(クラシック)と言うように,落語とは同じ素材の演者違い・テイク違いを楽しむ話藝でもあるからだ。

テイク違いもありなら苦も無くライブラリを育てられそうだが,いちおう精選してあるので増え方は緩やかである。それにこの頃は困った事態が頻頻と起こり始めた。
NHKラジオが笑福亭松鶴(『突然ガバチョ』のオウプニングで鶴瓶が背中を流していた爺さん)の『三十石』をやるんで喜び勇んで録っていたら,どうも聞いたことがある。『三十石』自体ぼくにはお馴染みの噺なんだけど,このフレイズ・この観客の反応は憶えがあるぞ。
ま・まさかと思いつ手持ちの市販カセットを同時に再生してみると。あっ,何と言うことだ,寸分たがわぬストーリとディーテイル,完全に同じテイクだった。
さぁ録音してみれば既に買っていたソフト・買ってくれば既に録音済みのエアチェック_テイプ,取り分け鬼籍に這入った噺家の「懐かしの高座」なんて特集はバッティングが非常に多くなった。こりゃ参ったね。
つまり僕のライブラリがもはや放送局なみなのであると自慢している訳だが,演者と演目が重なった場合いちいち突き合わさなければならず,たいへん面倒臭い。まだ誤って多重登録した例は無い,と思うよ。

落語は近い内にブームが来ると思う。しかしその時・そのあと落語界は僕の愛した世界ではなくなるだろう,MANZAIが漫才を破壊しつくしたように。

『古典落語』の全話網羅はまだ達成していない。最もポピュラと思しき『寿限無』なんかを存外だれも演じてくれないんだよなあ。

不一

1993年3月13日


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1000タイトルを数えた
 99.2/20現在で1516タイトルに育っている。2000タイトルに達するのは2005年ごろ?

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神の味噌汁
 吉田聡『ちょっとヨロシク!!』でのショータローの使い捨てギャグ。蛇足ながら「神のみぞ知る」と言っているのである。このマンガはおれ専用ではないかと思うくらい笑った。

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興津要篇の『古典落語』
 講談社文庫だったが,絶版と見える。

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落語の素養なくして
 松本はこどもの頃から枝雀のファンだそうである。いやー,そうは見えなかったナー。(2011.11/6追記)

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written by nii.n
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