藤原行能 ふじわらのゆきよし 治承三〜没年不詳(1179-?) 法名:寂能

義孝・行成の裔で、世尊寺流の能筆、太皇太后宮亮伊経の一男。母は法橋増宗の娘。建礼門院右京大夫の甥にあたる。子の経朝も書家として名を成した。
建仁元年(1201)正月、叙爵。源家長に百首歌を見せたことがきっかけとなり、後鳥羽院によって北面に召され、元久元年(1204)十月、宮内権少輔に任ぜられる。承久二年(1220)四月、従四位上に叙され、同年十月、修理(権)大夫。文暦二年(1235)九月、左京大夫。嘉禎二年(1236)六月、従三位。仁治元年(1240)十一月、出家した。没年は建長二年(1250)以後。
元久元年(1204)の「春日社歌合」、同二年の「元久詩歌合」など後鳥羽院歌壇で活動後、建暦三年(1213)閏九月の内裏歌合、建保三年(1215)の「内裏名所百首」、同四年閏六月および承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」など順徳天皇の内裏歌壇でも活躍した。ほかに「道助法親王家五十首」、寛喜四年(1232)の「石清水若宮歌合」、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」などに出詠。新古今集初出。勅撰入集計四十九首。『続歌仙落書』『新時代不同歌合』に歌仙として選入している。
書家としては、寛喜元年(1229)に「女御入内御屏風和歌」、文暦元年(1234)に『新勅撰集』を清書したことなどが知られる(明月記)。

暮山花といへる心をよみ侍りける

あすも来む風しづかなるみ吉野の山の桜はけふ暮れぬとも(新勅撰95)

【通釈】明日も見に来よう、風が静かに吹く吉野山の桜を。今日はもう日が暮れてしまうとしても、桜はまだ風に散らされることはあるまい

【補記】寛喜四年(1232)三月二十五日、石清水若宮歌合、二十四番左勝。定家の判は「風しづかなるみよし野のとおきて、山の桜はけふくれぬともと侍る、殊催感歎之思。(中略)左得秀歌之体、為勝」。

五月雨

さみだれも月の行くへはしられけり一むら白き山の端の雲(洞院摂政家百首)

【通釈】梅雨の夜でも、月の行方は知られることだ、一群の山の端の雲が白く映えていることによって。

【語釈】◇一むら白き 一群の雲が月の光を透かしてほの明るく見えることを言う。◇山の端の雲 山と空との境界面をふさぐように山にかかっている雲。気象用語で言えば、層積雲。

【補記】寛喜二年(1230)六月、洞院摂政藤原教実によって企画された百首歌。

よみて侍りける百首歌を、源家長がもとに見せにつかはしける奥に、かきつけて侍りける

かきながす言の葉をだにしづむなよ身こそかくても山河の水(新古1777)

【通釈】我が身は山川の水に沈む木の葉のようにこのまま落ちぶれて終わるとしても、せめて書き流した言の葉――これらの歌だけは、沈めないで下さいよ。

【語釈】◇源家長 後鳥羽院の和歌所の開闔(次官)として、新古今集の編纂実務に携わった。◇かきながす 筆で書く。山河の縁で「ながす」と言っている。◇ことのは 和歌のこと。◇しづむなよ 婉曲に「歌を採用してほしい」と願望を述べる。◇山河の水 「(かくて)やまむ」を掛ける。

【補記】ながす・葉・沈む、いずれも「山河の水」と縁のある語。なお『源家長日記』によれば、家長がこの歌を後鳥羽院に奏聞し、その結果行能は北面に採用されたという。

【他出】定家十体(有心様)、源家長日記、新時代不同歌合、三五記


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月10日