足利義教 あしかがよしのり 応永元〜嘉吉元(1394-1441) 号:普広院

足利義満の第四子。母は藤原慶子。四代将軍義持の同母弟。日野重子との間に義政をもうける。
応永十年(1403)、出家して青蓮院に入り義円を称す。大僧正・天台座主に至るが、正長元年(1428)、兄義持の死去により、石清水八幡宮社前の籤引きで次期将軍と決まり、還俗して義宣を名乗る。翌年第六代将軍となり、義教と改名。将軍の権威の恢復につとめ、有力守護家の勢力の弱体化、意に添わない公家・寺社に対する弾圧など、専制的な政治をおこなった。やがて鎌倉公方足利持氏との関係が悪化、永享四年(1432)九月には諸将を具して富士山遊覧を行ない、持氏を威嚇した。同十年、ついに持氏討伐の動員令を発し、翌年自害に至らしめた(永享の乱)。その後も下総の結城氏が挙兵するなど関東の情勢は安定せず、恐怖政治とも呼ばれる専制化を推し進める中、嘉吉元年(1441)、赤松満祐邸に猿楽見物に招かれ、満祐によって殺害された(嘉吉の乱)。
正長元年(1428)四月、宋雅(飛鳥井雅縁)飛鳥井雅世らを招いて歌会を開く。以後定期的に歌会を催し、幕府歌壇を盛り上げた。宗匠としては飛鳥井家を重んじ、また二条家の後継者として堯孝も信任した。永享四年の富士見には雅世・堯孝らを伴い、今川範政邸で歌会を行なっている。雅世を推して最後の勅撰集新続古今集を編纂させた。永享百首作者。勅撰入集は新続古今集のみ十八首。

百首歌奉りし時、鶯

のどかなる日影とともに軒ちかき梢にうつる鶯のこゑ(新続古今44)

【通釈】のどかな春の日射しが軒の方へ移るにつれて、近くの梢に居場所を変える鶯の声よ。

【補記】春の日射しを慕うように移動する鶯。「お蔭で声がよく聞えるようになった」という喜びが余情として籠る。初出は永享百首。

【参考歌】九条良経「秋篠月清集」「夫木抄」
紫の庭ものどかにかすむ日の光ともなふ鶯のこゑ
  二条教良女「風雅集」
のどかなる霞の色に春みえてなびく柳にうぐひすのこゑ

百首歌たてまつりし時、夕立

夕立の雲の衣はかさねても空に涼しき風のおとかな(新続古今321)

【通釈】ふっくらとした衣のような夕立雲を幾重にも吹き寄せる風だが――その音は夏の空に涼しげに響くことよ。

【補記】「雲の衣」は雲を衣に見立てた表現。万葉集にも見える。「かさねて」は衣の縁語。「衣を重ねても涼しい」という諧謔がある。初出は永享百首。後世、武家百人一首などにも採られている。

【参考歌】正親町忠季「新拾遺集」
かさねてもうらみやはれぬ七夕のあふ夜まどほの雲の衣は

【主な派生歌】
夕立の雲の衣はつつめども袖にたまらぬかぜのしら玉(木下長嘯子)

百首歌たてまつりし時、寄海恋

おなじくは思ふ心のおくの海を人にしらせでしづみはてなん(新続古今1383)

【通釈】どうせ叶わぬ恋――同じことなら、ひそかな心の奥の海のように深い思いを、このまま人に知らせずに死んでしまおう。

【補記】「おく」には「奥」「沖」の両意を掛ける。「沈み」は海の縁で死ぬことをこう言ったもの。永享百首。

【参考歌】藤原定家「新古今集」
たづね見るつらき心のおくの海よしほひのかたのいふかひもなし


最終更新日:平成15年09月22日