山前王 やまくまのおおきみ 生年未詳〜養老七年(723)

忍壁皇子の息子。子に葦原王がいる。慶雲二年(705)十二月、従四位下。養老七年(723)十二月、卒。この時散位従四位下。『懐風藻』に五言一首を残し、「従四位下刑部卿」とある。

紀皇女の薨ぜし後に、山前王、石田王に代りて作る歌二首

こもりくの泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも(万3-424)

【通釈】泊瀬のおとめが手に巻いている玉は、緒が切れてばらばらに乱れているというではないか。

【語釈】◇こもりくの 原文「隠口乃」。「こもりく」は山に包まれている所の意で、「泊瀬」にかかる枕詞

【補記】泊瀬は古代大和政権の中心であった聖地であり、葬送の地でもあった。天武天皇の時代に長谷寺が創建され、今なお信仰の地であり続けている。紀皇女は天武天皇の皇女で、この歌からすると泊瀬に葬られたらしい。玉の緒が切れるとは命が絶えることの比喩。

 

川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや(万3-425)

【通釈】川風が寒く吹きつける泊瀬の道を、嘆きながらあなたは歩くけれども、亡き皇女に似た人と逢うことなどありはしない。

【補記】以上は「同石田王卒時、山前王哀傷作歌一首」(万3-423)の後に「或本反歌二首」を題詞として載せる二首。ここでは「或云」として掲げられた左注を題詞に移した。歌の内容からして、制作事情は左注が正しく伝えていると思われるからである。


最終更新日:平成15年08月05日