読人不知 よみびとしらず 未詳

生没年、官歴などすべて未詳。父母等も未詳であるが、紀貫之ら古今集撰者が名付け親であろうと言われる。大変な長寿であったらしく、勅撰和歌集を見る限りでも、平安時代以前から南北朝時代までの生存が推測される。古今集に480首入集したのを始め、勅撰二十一代集に2700余首を載せる。その数は藤原定家の入集歌の約六倍にも及び、和歌史上最高の歌人であることに誰も異論はあるまい。
その歌は、あるものは柿本人麻呂の作とも言い、あるものは平城天皇の作とも伝わり、またあるものは西行平忠度の作であることが確実視されている。各時代に、様々な仮名・偽名を用いていたことも考えられよう。
あまりにも秀歌が多すぎるために、ここには、最初の勅撰集である古今集の最初にあらわれる作と、最後の勅撰集である新続古今集の最後にあらわれる作、二首のみを掲げることとしたい。
関連ファイル:中古読人不知歌

題しらず

春霞たてるやいづこみよしのの吉野の山に雪はふりつつ(古今3)

【通釈】春霞が立っているのは何処か。吉野の山にまだ雪は降り降りしている。

【補記】暦の上では春となった頃、なお雪の降り続ける吉野の山里にあって、春の徴候である霞を想い、文字通りの春の到来を待ち侘びる心。

橘俊綱朝臣家歌合に、祝の心を

神代よりかはらずすめる石清水千とせの後も汲むよしもがな(新続古今2091)

【通釈】神々の時代から変わらずに澄んでいる石清水(いわしみず)よ、千年の後も汲めるようであってほしい。

【補記】男山の中腹に湧き出る霊泉に因み、石清水八幡宮の神威の不変、ひいては皇統と国家の長久を祈った歌。詞書にある橘俊綱(1028-1094)は藤原頼通の子。橘俊遠の猶子となる。自邸でしばしば歌合を開催した。


最終更新日:平成21年08月12日
※これは千人万首のジョークページです。

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