蘇我馬子 そがのうまこ 生年未詳〜推古三十四(626)

稲目の子。敏達天皇即位の年(572)、大臣となる。以後、用明・崇峻・推古の四代にわたり大臣職にあり、蘇我氏全盛時代を築いた。
仏教の信仰に篤く、敏達天皇代、富浦に日本最初の仏塔を造営した。仏教は次第に支配層に浸透し、用明天皇は三宝帰依を表明するに至るが、仏教反対派の物部守屋達は用明二年(587)馬子に対して軍を興し、馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)・厩戸皇子(聖徳太子)達と共に物部氏を討った。崇峻五年(592)、崇峻天皇が武器を集めていることを知り、東漢直駒を使い天皇を暗殺した。推古天皇代には厩戸皇子が摂政に就き、息女の刀自古郎女を皇子に嫁がせた。推古四年(596)、法興寺(飛鳥寺)を完成。晩年、聖徳太子と共に「天皇記・国記」などを記す。推古三十四(626)五月、薨じ、桃原墓(石舞台古墳か)に葬られた。日本書紀に「性、武略有りて、亦弁才有り」とある。

以下は日本書紀巻二十二に載る、蘇我馬子が推古天皇に献ったと伝える歌である。

石舞台古墳
石舞台古墳 蘇我馬子の墓という

二十年の春正月の辛巳(かのとのみ)(ついたち)丁亥(ひのとのゐ)に、置酒(おほみきをめ)して群卿(まへつきみたち)(とよのあかり)す。是の日に、大臣(おほおみ)(おほみさかづき)(たてまつ)りて歌ひて曰く、

やすみしし 我が大君の (かく)ります (あま)八十光(やそかげ) ()で立たす 御空(みそら)を見れば 万代(よろづよ)に かくしもがも 千代(ちよ)にも かくしもがも (かしこ)みて (つか)へまつらむ (をろが)みて (つか)へまつらむ 歌()きまつる

【通釈】国をお治めになる天皇陛下が、お休みになる、天上の広大な御殿。お姿をお見せになる、天空のように広大な宮殿を拝見すれば、万年もこのようにあってほしいと願います。千年もこのようにあってほしいと願います。ここで私は謹んでお仕え申し上げましょう。ひれ伏してお仕え申し上げましょう。かように私は歌を献上いたします。

【補記】日本書紀巻二十二。推古二十年(612)正月、天皇が小治田宮で催した大宴会で、馬子が推古天皇に盃を献上した際に詠んだという歌。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月14日