鳥羽院 とばのいん 康和五〜保元一(1103-1156) 諱:宗仁

堀河天皇の第一皇子。母は藤原実季女、贈皇太后茨子。待賢門院璋子(藤原公実女)を中宮とし、顕仁親王(崇徳院)雅仁親王(後白河天皇)覚性法親王をもうける(ただし崇徳院の実父は白河院との伝がある)。また美福門院得子(藤原長実女)との間には躰仁親王(近衛天皇)をもうけた。
嘉承二年(1107)十二月、五歳で即位。永久二年(1114)および同五年、内裏歌合を催す。在位は十六年に及んだが、保安四年(1123)正月、白河院によって退位させられ、顕仁親王が即位(崇徳天皇)。大治四年(1129)七月には白河院が崩じ、以後上皇として実権を握る。永治元年(1141)、出家(法名空覚)。同年、崇徳天皇を譲位させ、躰仁親王を即位させる(近衛天皇)。しかし久寿二年(1155)、近衛天皇は十七歳で夭折。子の重仁親王の即位を願う崇徳院を抑え、雅仁親王を即位させた(後白河天皇)。保元元年(1156)七月二日、五十四歳で崩御。金葉集初出。勅撰入集八首。

五十御賀過ぎて又の年の春、鳥羽殿桜盛りに、御前の花を御覧じてよませ給うける

心あらば匂ひを添へよ桜花のちの春をばいつか見るべき(千載1052)

【通釈】心があるなら、今年はいつもよりいっそう色美しく咲いてくれ、桜の花よ。このあと、再び春を見ることはありそうもないから。

【語釈】◇匂ひ 溢れ出るような美しい色や香。視覚的な美を言うのが原義。

【補記】鳥羽院の五十御賀(五十歳の祝い)は仁平二年(1152)三月七日。翌年の春、鴨川と桂川の合流点付近にあった離宮鳥羽殿で詠んだ歌。なお鳥羽院はその二年後に亡くなっている。

わづらはせ給うける時、鳥羽殿にて時鳥の鳴きけるを聞かせ給うてよませ給うける

つねよりもむつましきかな時鳥しでの山路の友とおもへば(千載582)

【通釈】声を聞くと、いつもより親しく感じられるよ。ほととぎすよ、おまえが冥土へ向かう山道に付き添ってくれる友と思えば。

【補記】時鳥は「死出の田長(たおさ)」とも呼ばれ、冥土から来る鳥と考えられた。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成20年05月31日