貞心 ていしん 寛政十〜明治五(1798-1872)

越後長岡藩士奥村五兵衛の娘。俗名マス。十六歳頃、望まれて医師関長温に嫁すが、二十代で夫と離別し、やがて柏崎で剃髪して貞心を称す。文政十年(1827)頃、古志郡福島村(現在長岡市)の閻魔堂に独居する。この頃良寛を知ったらしく、敬慕の思いを手紙にしたため、のち島崎の庵に良寛を訪ねた。時に貞心尼二十九歳、良寛六十九歳。以後、良寛の死までの五年間、たびたび消息を通わせ、また庵を訪問し合う。天保元年(1830)歳末、良寛危篤の報を受け、島崎の庵に駆けつけたが、年が明けて正月六日、良寛は示寂した。天保六年(1835)、良寛の歌を集めて家集『はちすの露』を編む。同十二年(1841)、正式に得度し、柏崎の釈迦堂の庵主となる。嘉永四年(1851)の柏崎大火で釈迦堂を焼失したが、人々の寄進によって真光寺境内に不求庵(ふぐあん)を建て、二人の弟子と共に移り住んだ。明治五年(1872)二月十一日、入寂。七十五歳。墓は柏崎市常盤台の曹洞宗洞雲寺にある。
四十四歳以後の作を集めた家集『もしほ草』があり、『はちすの露』には良寛との贈答歌がある。また中村葉月編の歌抄、これを増補した相馬御風編の歌抄(『貞心と千代と蓮月』所載)がある。
関連サイト:貞心と千代と蓮月もしほぐさ(Taiju's Notebook)

「はちすの露」 『貞心と千代と蓮月』(相馬御風著 春秋社版)・日本古典文学大系93「近世和歌集」(抄出)・新編国歌大観9
「もしほ草」 女人和歌大系3
「貞心尼遺稿」 『貞心と千代と蓮月』

小松引

めづらしきためしにひかむ越路にも雪なき春の野べのひめ松(貞心尼遺稿)

【通釈】珍しい記念として引いておこう。越の国にも雪の降らない今年の春、野辺の姫小松を。

【語釈】◇小松引 正月初子(はつね)の日、生えそめた小松を引き抜いて遊んだ行事。長寿・常緑の松に因み、健康を祈り祝った。子の日の遊びとも。

【補記】相馬御風『貞心と千代と蓮月』に収録された貞心尼の遺稿歌抄より。貞心尼の家集『もしほ草』には「越路にも雪なき春はめづらしきためしに引かむ野辺の姫松」として載る。掲出歌は推敲を経たものか。『もしほ草』によれば元治二年(1865)正月、貞心尼六十八歳の作。同家集は三代集以来の心・詞に随順した型通りの歌がほとんどを占め、作歌上の良寛の影響はほとんど窺えない。

【参考歌】藤原信賢「拾遺集」
めづらしき千代のはじめの子の日にはまづ今日をこそひくべかりけれ
  新少将「続詞花集」
めづらしきためしにひかむ雪降れば子の日の松も花咲きにけり

師常に手毬をもてあそびたまふとききて

これぞこの仏の道に遊びつつつくやつきせぬ御のりなるらむ(はちすの露)

【通釈】あなた様は手鞠を常に「つく」ことで、仏の道に遊びながら、「尽き」ることのない永遠の御法を示されているのでしょう。

【補記】『はちすの露』の貞心・良寛贈答歌群の最初の一首。良寛の返歌は「つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまた始まるを」。鞠を繰り返しつくことに掛けて仏法の際限のないことを示し、貞心尼の問いを暗に肯定したのであろう。この贈答は「はじめてあひ見奉りて」と詞書した歌より前にあり、この時貞心尼はまだ良寛に会ったことがなかった。

いとねもごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば

白たへの衣手さむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも 師

【通釈】着物の袖が寒々とする。秋の夜も更けて、月が中天に澄み切っているのだなあ。

されどなほあかぬここちして

向かひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆく月のこと問はずとも(はちすの露)

【通釈】こうしてあなたと向かい合ったまま、幾千年もお顔を拝見していたいのです。空をゆく月がどこにあろうと気にしないで。

【補記】夜更けまで親しく法話を交わした時の贈答。良寛はさらに返して「心さへかはらざりせば這ふ蔦のたえず向かはむ千代も八千代も」。

いざかへりなんとて

立ちかへりまたもとひこむ玉ぼこの道の芝草たどりたどりに(はちすの露)

【通釈】今はお別れして庵に戻っても、またすぐに訪ねて参りましょう。芝草に埋もれた道ですが、その芝草を辿り辿りして。

【補記】前掲の歌から一連の作。「道の芝草たどりたどりに」がユニーク。「この場合貞心尼の歌までもが万葉調中の良寛調を呈しているのがおもしろい」(吉野秀雄『良寛 歌と生涯』)。良寛の返歌は「またも来よ山のいほりをいとはずば薄尾花の露をわけわけ」。

ぬすまれし品々をよめる戯(たは)れ歌
からかさ・かつぱ

いづくへかさしてゆきけん雨の夜にぬすみにきたるかつぱからかさ(貞心尼遺稿)

【通釈】どこを目指して差して行ったものやら。雨の夜に合羽と唐傘を盗みにやって来て。

【語釈】◇さしてゆきけん 「さして」には「目指して」「(傘を)差して」の両義が掛かる。◇ぬすみにきたる 「きたる」には「(合羽を)着たる」の意が掛かる。

【補記】明治二年(1869)三月二十七日夜、不求庵に強盗に押し入られ、様々な品物を盗まれた直後、貞心尼は盗品の一つ一つを詠み込んで歌を認めた。「けさ・ころも」の題では「しらなみのよるの嵐に立ち入りてけさはころもの一つだになし」、「ちやうちん」の題では「提灯を何の為とやぬすみけん闇をたのみのわざをしながら」といった具合である。最後には「軽からぬ罪を背負ひて死出の山こえゆく時はくるしかるらむ」「わが為にあだなすものも憎からで後の世までをあはれとぞ思ふ」と盗人の行く末を思いやっている。

良寛禅師の石碑の建ちたる時

立ちそひて今しも更に恋しきはしるしの石に残るおもかげ(貞心尼遺稿)

【通釈】記念の石碑の歌を見れば師の面影が立ち添い、今になって尚更恋しくてなりません。

【補記】どの石碑とも知れないが、良寛の詩歌を刻んだ石碑が建った時の歌。一例として島崎の浄土真宗隆泉寺の良寛の墳墓の碑石には、良寛作の五言長詩と旋頭歌「やまたづのむかひの岡にさをしか立てり かみなづきしぐれの雨に濡れつつ立てり」とが刻まれている。

良寛禅師肖像賛

浮雲のすがたはここにとどむれど心はもとの空にすむらむ(貞心尼遺稿)

【通釈】浮雲のように自由気ままに漂泊した御姿はこの絵に残っているけれども、師の御心は今もかつての空に澄み切って留まっておられるのだろう。

【補記】良寛の肖像画に添えた歌。かつて良寛が貞心に与えた歌「浮雲の身にしありせば時鳥しばなく頃はいづこに待たむ」を思い出させる。


公開日:平成19年12月23日
最終更新日:平成20年06月26日