二条為重 にじょうためしげ 正中二〜至徳二(1325-1385)

二条家庶流、正四位下左中将為冬の子。子に右中将為右がいる。御子左家系図
父為冬は南朝に仕え、建武二年(1335)箱根竹の下で戦死。為重はこの時わずか十一歳であった。壮年期に至るまで低い官位に留められ、応安四年(1371)、四十七歳の時ようやく従三位に叙され公卿に列した。永和二年(1376)、正三位。同四年、参議。永徳元年(1381)、権中納言。同二年、従二位。至徳二年(1385)二月十五日、何者かの夜討に遭って非業の死を遂げた。六十一歳。
貞治六年(1367)の新玉津島社歌合、応安二年(1369)九月十三夜内裏和歌等に出詠。延文百首・永徳百首作者。二条家嫡流の従兄為定の右筆(秘書)を長くつとめ、為定の死後はその嫡子為遠を補佐した。為遠の晩年には二条良基の推挙で将軍義満の歌道師範となるなど、為遠を凌ぐ勢いをみせた。永徳元年(1381)、新後拾遺集の撰者に任命されていた為遠が死去すると、代って撰者に指名され、翌年三月に四季部を奏覧、至徳元年(1384)に返納した。二条家最後の歌道師範であり、以後後継者を失って二条家は急速に衰退することとなる。康暦二年(1380)の一年間の歌を集めた家集『為重卿集』がある。新千載集初出。勅撰入集三十六首。

「為重卿は近来の堪能なり。わかくより風骨天性おもしろき歌よみにて侍りし也。頓阿・慶雲は異風なるやうに申侍りしかども、よき歌をば又ほめ申しき。(中略)生得の骨のある歌にて、ことば心はたらきて当座おもしろかりし也」(二条良基「近来風体抄」)。

風かよふ明日香の里の梅が香に君があたりは春ぞ過ぎ憂き(延文百首)

【通釈】風が行き交う飛鳥の里には梅の香が漂って、万葉集にも「君があたり」と詠まれた、あなたの住む辺りは、春に通り過ぎるのが惜しまれることよ。

【補記】飛鳥に住む友人のもとに立ち寄ったという趣向の作として読んでみた。延文百首は延文元年(1356)、新千載集撰進にあたり後光厳院により召されたもの。作者は三十二歳、意欲的な佳詠が散見する。特に春歌が良い。

【本歌】作者不詳(一説に持統天皇)「万葉集」巻一
飛ぶ鳥の明日香の里をおきていなば君があたりは見えずかもあらむ

帰雁

すぎぬなりかすむ雲路の春の雁きえゆくほどを面影にして(延文百首)

【通釈】もう行ってしまった。春の雁は、霞みわたる空の彼方に消えてゆく時の姿を、私の瞼に残して。

【補記】「雲路」は雲の中の通り路。

【参考歌】九条良経「千載集」
ながむればかすめる空のうき雲とひとつになりぬかへる雁がね

散りつもる花のみなわを()きかけて桜にむせぶ春の山川(延文百首)

【通釈】散り積もった花を浮かべて流れる水沫を堰き止めて、桜に咽ぶ春の山川よ。

【補記】「桜にむせぶ」は、川の流れが桜の花びらによって途絶えがちになり、咽ぶような波の音を立てることを言う。また、落花を惜しんで泣いていると川を擬人化しているとも取れる。

【参考歌】西園寺実氏「続拾遺集」
初瀬川花のみなわの消えがてに春あらはるる瀬々の白波
  今出川兼季「続千載集」
吹きおろす嵐の山に春暮れて井堰にむせぶ花の白波

海辺雪を

わたつうみの波もひとつにさゆる日の雪ぞかざしの淡路島山(新後拾遺562)

【通釈】波も見分けがつかないほど、海が白一色に凍える日――沖合には、雪を挿頭としている淡路島山。

【補記】「波もひとつに」は、白い波頭と海面に降る雪が一つになって見えることを言う。「かざし」は髪飾り。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
わたつ海のかざしにさせる白妙の波もてゆへる淡路しま山

【参考歌】作者不詳「斎宮貝合」
月影のしろらの浜のしろがひは波もひとつに見えわたるかな
  頓阿「草庵集」
うづもれぬ波もひとつに白妙のふぢえの浦の雪の明ぼの

題しらず

思ひ出でよ野中の水の草がくれもとすむ程のかげは見ずとも(新後拾遺1192)

【通釈】思い出してください。「野中の清水」も草が生えて隠れてしまい、以前程にはくっきり澄んだ面影は見えないとしても。

【補記】かつて親密だった恋人に呼びかける趣向の歌。「野中の水」は古今集の歌に由来し、普通今昔を比較する際に持ち出される歌枕。ここでは恋人との仲が昔と変わってしまったことを暗示する。「すむ」には「澄む」「住む(女の家に通う意)」を掛ける。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
いにしへの野中の清水ぬるけれど本の心をしる人ぞくむ

【参考歌】西行「続後撰集」
むかし見し野中の清水かはらねばわが影をもや思ひいづらむ

新玉津島社歌合に、神祇

ささがにの蜘蛛のいとすぢ代々かけてたえぬ言葉の玉津島姫(新続古今2143)

【通釈】蜘蛛の糸が長くつながって切れることがないように、幾代にもわたって絶えることのない和歌をお守りくださる玉津島姫よ。

【補記】貞治六年(1367)三月、将軍足利義詮の発案により、新玉津島社の社殿新築を記念して開催された歌合に出詠した歌。題は「神祇」、七十一番右(勝負判なし)。「玉津島姫」は玉津島神社の祭神。衣通姫と同一視され、和歌の神として崇拝された。

【本歌】衣通郎姫「日本書紀」
我が夫子が来べき宵なりささがねの蜘蛛の行ひ今宵しるしも


更新日:平成15年05月24日
最終更新日:平成21年08月23日