藤原高遠 ふじわらのたかとお 天暦三〜長和二(949-1013)

清慎公実頼の孫。参議斉敏(ただとし)の子。母は播磨守尹文女(尊卑分脈)。小野宮右大臣実資の同母兄。従兄弟に佐理・公任がいる。
応和四年(964)正月、従五位下。康保三年(966)、閏八月十五夜内裏前栽合に出詠。康保四年(967)、侍従。同五年、右衛佐。安和二年(969)、右少将。同三年、近江介を兼ねる。天禄元年(970)十一月、従五位上。同二年正月、正五位下。同四年正月、民部権大輔。同年十二月、春宮権亮。永観二年(984)十月、正四位下。同月、右馬頭。寛和二年(986)正月、内蔵頭を兼ねる。同年六月十日の内裏歌合に出詠。永延元年(987)、右兵衛督。永祚二年(990)正月、従三位非参議。正暦三年(992)、兵部卿。長徳二年(996)、左兵衛督。寛弘元年(1004)十二月、大宰大弐となり筑紫に下る。長和元年(1012)四月、正三位。同二年五月六日、卒。六十五歳。管弦にもすぐれ、一条天皇の笛の師であったという(枕草子)。
家集に『大宰大弐高遠集』がある。拾遺集初出。勅撰入集二十八首。中古三十六歌仙

少将に侍りける時、駒迎へにまかりて

逢坂(あふさか)の関の岩かどふみならし山たちいづるきり原の駒(拾遺169)

【通釈】逢坂の関あたりの道は岩がごつごつしてるが、その角を踏みしめ、蹄の音をたてながら、山を越えてやって来るよ、わきあがる霧の中を、桐原産の馬たちが。

【語釈】◇駒迎へ 毎年八月、諸国から献上される馬を逢坂の関まで迎えに行く行事。◇きり原 信濃国の歌枕。松本市入山辺桐原。馬の牧場があった。キリに霧を掛け、「たちいづるきり」でたちのぼる霧の意を含ませる。◇ふみならし 踏み均し・踏み鳴らし、いずれともとれる。下記定家の本歌取りからすると、新古今の頃は「踏み鳴らし」と解釈されたか、または少なくとも掛詞と取っていたはずである。

【主な派生歌】
紅の木の葉吹きわけ行く駒の影ふみならす岩のかけ道(藤原範光)
立ちつづく桐原の駒越ゆれども音は隠れぬ関の岩かど(藤原定家)
逢坂の関ふみならすかち人のわたれどぬれぬ花の白波(藤原良経[新勅撰])

文集の、蕭々暗雨打窓声といふ心をよめる

恋しくは夢にも人をみるべきに窓うつ雨に目をさましつつ(後拾遺1015)

【通釈】恋しいなら、夢ででもあの人に逢えるはずなのに、窓をうつ雨音に目を覚ましてばかりで、夢さえ見ることができません。

【語釈】◇文集 白氏文集。◇蕭々暗雨打窓声 蕭々たる暗雨、窓を打つ声。『新楽府』其の七「上陽白髪人」にある句。上陽宮に閉じ込められ、玄宗皇帝の寵愛を受けぬまま老いてゆく宮女が、秋の夜長の独り寝を歎く、といった内容の詩。

題しらず

思ひやる心も空になりにけり独り有明の月をながめて(新勅撰957)

【通釈】あの人のことばかり思っているうちに、私の心はからっぽになってしまったよ。ひとりで有明の月の残る空を眺めて――。

【語釈】◇心も空に 魂が恋人の方へ飛び去って、自分の心のなかは空虚になってしまったことをいう。◇有明の月 夜明け頃、まだ空に残っている月。上の句とのつながりで「ひとり在り」と掛詞になる。

太宰大弐高遠、筑紫にくだりけるに、装束つかはすとて  小野宮右大臣

行きめぐりあひ見まほしき別れには命もともに惜しまるるかな

【通釈】今は別れなけりゃならないけど、運命を経巡った末に、また逢いたいよ。でも将来はどうなるか分からないから、別れが惜しいばかりじゃない、命も惜しまれてならないのだ。

返し

君が代のはるかにみゆる旅なれば祈りてぞゆく(いき)の松原(続古今824)

【通釈】君の寿命が遥かなように、長くなると思える旅路だから、祈りながら行くよ、生きてほしいとの願いが叶うという、生の松原を。

【語釈】◇小野宮右大臣 実資。高遠の同母弟。◇生の松原 福岡市西区、今津湾に臨む海岸。神功皇后が朝鮮出兵の折、この地に松の枝を挿して、「無事に帰国できるならば、松の枝よ生きよ」と祈ったところ、その松の枝が生育したとの伝説がある(『筑前国風土記』)。

筑紫よりまかりのぼりけるに、なくなりにける人を思ひいでてよみ侍りける

恋しさにぬる夜なけれど世の中のはかなき時は夢とこそみれ(後拾遺577)

【通釈】死んでしまったあの人が恋しくて、眠れる夜もないけれど、そんな夜、ふとこうも思うのだ、こんなふうに現実がはかなく流れてゆく時というものは、これこそが夢ではないのかと。

【語釈】◇筑紫よりまかり… 大宰大弐として赴任した九州から京へ帰る時。船中での連作の一首。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年09月26日