穂井田忠友 ほいだただとも 寛政四〜弘化四(1792-1847) 号:蓼莪

名は縹助。文化八年(1811)、平田篤胤に入門し国学を学ぶ。翌年京都で西洋医術を学び、また香川景樹に入門して和歌を学んだ。京都桂門の高弟として桂門十哲に数えられる。古典・古物の考証にすぐれ、天保七年(1836)の正倉院開封において器物文書の調査に当たった。弘化四年(1847)九月十九日、没。五十六歳。家集『穂井田忠友家集』(弥富浜雄編)、著書『埋麝発香』『観古雑帖』『万葉地名考』、編書『正倉院文書正集』などがある。
 
以下には『穂井田忠友全歌集』(簗瀬一雄編著、和泉選書)より二首を選んだ。

山中立春

こころみに都に出でてかへり見むわが山里もいまやかすむと

【通釈】ためにし、都へ出て、振り返って見よう。私の住む山里ももう春霞が立っているのかと。

【補記】都から霞の立つ山を眺めて春の到来を知る、という立春詠の常套を反転させたところに面白みがある。作者の特色はこうした軽妙な作風にあり、例えば「古瓦」と題した一首、「いにしへの瓦手にとり見れど見れどただいにしへの瓦なりけり」など、考古学者であった作者を思えば微笑を誘われずにいない、とぼけた可笑しみがある。

初恋

我が袖は道よけあひし唐傘(からかさ)の雨のしづくに濡れにけるかな

【通釈】私の袖は、お互い道を避け合った時の、唐傘の雫に濡れてしまったのだ。

【補記】袖が濡れるといえば、恋歌では涙で濡れるのがお定まり。ところが道で出くわした人の傘の雫に濡れたという。それが縁で恋に落ちた、というのであろう。


公開日:平成20年02月21日
最終更新日:平成20年02月21日