清少納言 せいしょうなごん 生没年未詳

歌人清原深養父の曾孫。元輔の娘。生年は康保元年〜同三年(964-966)頃とする説が多い。
天元五年(982)、橘則光との間に則長を産む。則光と正式な夫婦であったかは不明であるが、関係は長徳四年(998)頃まで続いたと考えられている。正暦初年(990-993)頃、一条天皇の中宮定子(藤原道隆の息女)のもとに宮仕えを始める。時に二十代後半、または三十歳前後か。
中宮定子の恩寵を蒙り、生来の機知と豊かな教養は評判となって、やがて『枕草子』を執筆。その一部は長徳元年(995)または翌年頃に清少納言の手を離れ、漸次宮中で広く愛読されるに至ったらしい。この間、藤原実方・行成・公任などとも親交を持った。
関白道隆は長徳元年(995)に死去し、代って道長が台頭。長保二年(1000)、定子は皇后に棚上げされ、中宮の地位には道長の息女彰子がついた。同年、定子は皇女出産の直後崩じ、この頃清少納言も宮仕えを退いたと思われる。
以後の生涯は不明な点が多いが、『枕草子』の執筆は定子の死後にも継続されたらしい。また藤原棟世と結婚し、重通と女子(小馬命婦。後拾遺集入撰歌人。家集を持つ小馬命婦は別人)をもうけた(尊卑分脈)。『赤染衛門集』には、父元輔の荒れた旧居に住む清少納言に触れた歌があり、晩年の暮らしぶりが窺われる。没年も不明であるが、寛仁四年(1020)頃とする説や、万寿四年(1027)頃とする説などがある。
中古三十六歌仙の一人。家集『清少納言集』がある(群書類従二七四(第十五輯)・桂宮本叢書九・私家集大成一・新編国歌大観三・和歌文学大系二十などに収録)。後拾遺集初出。勅撰入集十四首。

たのめたる夜、見えざりける男の、後にまうで来たりけるに、出でてあはざりければ、言ひわびて、「つらきことを知らせつる」など言はせたりければよめる

よしさらばつらさは我にならひけり頼めて来ぬは誰か教へし(詞花316)

【通釈】〔詞書〕期待して待っていた夜、とうとう現れなかった男が、その後やって来たけれども、出て行って会わなかったので、男はどう言えばよいのかと嘆いて「貴女は心が薄情であることを教えてくれました」などと人を通じて言って来たので、詠んだ。
〔歌〕わかりました、それなら、人の心の薄情さは私から学んだというわけです。でも、期待させて来ないという非道い仕打ちは、誰があなたに教えたのでしょうか。

【補記】会うことを拒否された事について「つらきことを知らせつる」と非難して来た男に対し、貴男が私に対してした「頼めて来ぬ」ことの方が余程「つらきこと」であると言い返したのである。詞花集巻九、雑上。定家八代抄などは恋の部に入れている。

【他出】清少納言集、金葉集三奏本(重出)、玄々集、麗花集、定家八代抄、八代集秀逸

実方の君の、みちのくにへ下るに

とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川そでのわたりはあらじとぞ思ふ(清少納言集)

【通釈】私の寝床も淵になり、その淵も浅瀬になることなく流れ続ける涙川――もはや、陸奥の国の袖の渡も渡れないだろうと思います。

【語釈】◇そでのわたり 陸奥国の歌枕。「わたり」は川が浅くなっていて渡れる場所、または渡船場。「そでのわたりはあらじ」とは、涙が溢れるように袖に流れるさまを歌枕に寄せて言ったもの。

【補記】『小大君集』に小異歌があり、混入したかとも言う。

みな月の比、萩の下葉にかきつけて人のもとへつかはしける

これを見ようへはつれなき夏草も下はかくこそ思ひみだるれ(続千載1073)

【通釈】これを見て下さい。上葉は何ともない夏草も、下葉はこんなに色が変わるほど思い乱れているのです。

萩の下黄葉 鎌倉市雪ノ下
色づき始めた萩の下葉

【語釈】◇萩の下葉 萩の下のほうに繁っている葉。花に先立って黄葉することがある。

【補記】晩夏水無月、萩の下葉に付けて贈った歌。ひそかに色付き始めた萩に忍ぶ恋の思いを託している。『清少納言集』には詞書「世の中いとさわがしき年、とほき人のもとに、萩の青き下葉の黄ばみたるに書きつけて、六月ばかりに」とあり、藤原伊周(定子の兄)の左遷事件があった長徳二年(996)頃かとも言う。とすれば「遠き人」は当時陸奥守であった藤原実方ということになるか。

【他出】清少納言集、万代集

人の許につかはしける

たよりある風もや吹くと松島によせて久しき海人(あま)のはし舟(玉葉1251)

【通釈】都合のよい風が吹くかと松島に寄せて、永いこと風待ちをしている海人の小舟――そのように、もしやあなたから色よい便りがあるかと、久しくお待ちしているのです。

【語釈】◇松島 陸奥国の歌枕。「待つ」を掛ける。◇はし舟 端舟。小舟に同じ。

【補記】『清少納言集』の詞書は「人のもとにはじめてつかはす」。

【他出】清少納言集、女房三十六人歌合

人を恨みて更に物言はじとちかひて後につかはしける

我ながらわが心をも知らずしてまた逢ひ見じとちかひけるかな(続後撰843)

【通釈】自分のことながら、自分の心さえ知らずにいて、もう二度と逢うまいと誓ったのでしたよ。

【補記】恨んで二度と口をきくまいと誓った後、後悔して男に贈った歌。

【他出】清少納言集、万代集、女房三十六人歌合

【主な派生歌】
よそながらふる川のべに立つ杉もまた逢ひ見みじと契りやはせし(二条為藤[新続古今])

菩提といふ寺に、結縁の講しける時、聴聞にまうでたりけるに、人のもとより「とく帰りね」といひたりければつかはしける

もとめてもかかる蓮の露をおきて憂き世にまたはかへるものかは(千載1206)

【通釈】自ら求めてでもかかりたい蓮の露―こんな有り難い結縁―をさし置いて、辛いことの多い俗世間に舞い戻ったりするものですか

【補記】枕草子「菩提といふ寺に」の章段参照。「かかる」には「このような」の意と「(露が)かかる」の意が掛かる。

【他出】枕草子、清少納言集、世継物語

一条院御時、皇后宮に清少納言初めて侍りけるころ、三月ばかりに二三日まかり出でて侍りけるに、かの宮よりつかはされて侍りける  皇后宮定子

いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな

【通釈】どうやって過ぎ去った日々をやり過ごしてきたのでしょう。日暮まで時間を過ごすのに苦労する昨日今日ですことよ。

御返事

雲のうへも暮らしかねける春の日をところがらともながめつるかな(千載967)

【通釈】宮中でも暮らすのに難儀されるという春の永い一日一日を、私は鄙びた実家の場所柄ゆえと思ってぼんやり過ごしておりましたよ。

【補記】初出仕して間もない頃、二三日実家に帰っていた清少納言のもとに、定子から「あなたがいないと、どう過ごしてよいのか分からない」と言ってきたのに対する返事。千載集巻十六、雑歌上。枕草子「三月ばかり物忌しにとて」の章段参照。

一条院の御時、皇后宮五節奉られける時、辰の日、かしづき十二人、わらは、下仕へまで青摺りをなむ着せられたりけるに、兵衛といふが赤紐の解けたりけるを、「これ結ばばや」と言ふを聞きて、中将実方朝臣寄りてつくろふとて、「あしびきの山井の水はこほれるをいかなる紐の解くるなるらむ」と云ふを聞きて、返り事によみ侍りける

うは(ごほり)あはにむすべるひもなればかざす日影にゆるぶばかりを(千載961)

【通釈】〔詞書〕一条天皇の御代、皇后宮(藤原定子)が五節の舞を奉仕なさった時、(当日の)辰の日に、介添え十二人、童女たちから下仕えの者たちまで青摺りの衣を着せられたが、兵衛という者が赤紐のほどけたのを、「誰かこれを結んで下さい」と言うのを聞いて、中将実方朝臣が近寄って直す時に、「山の井の清水が氷ったように冷たかったあなたが、紐が解けるように私にうちとけるとはどうしたことでしょう」と言うのを聞いて、返事として詠みました。
〔歌〕表面だけ氷った薄氷のように、ゆるく結んだ紐ですから、頭に挿頭す「日影のかずら」ではありませんが、日の光にあたって解けてしまっただけのことです。

【語釈】◇辰の日 中の卯の日に行なわれる新嘗会の翌日、辰の日に豊明節会が催され、五節の舞が演じられる。◇兵衛 定子の女房。枕草子には「小兵衛」とある。◇あはにむすべるひも 淡く結んだ紐。「ひも」に「氷面」を掛け、淡く氷った水面の意を響かせるか。

【補記】返事に困った兵衛に代って清少納言が実方に歌を返したのである。枕草子「宮の五節いださせ給に」の章段参照。「ひも」に氷面を掛ける。千載集巻十六、雑歌上。

大納言行成ものがたりなどし侍りけるに、内の御物忌みに籠ればとて急ぎ帰りて、つとめて「鳥の声にもよほされて」と言ひをこせて侍りければ、「夜深かりける鳥の声は函谷関の事にや」と言ひにつかはしたりけるを、たちかへり「これは逢坂の関に侍り」とあればよみ侍りける

夜をこめて鳥のそらねにはかるともよにあふ坂の関はゆるさじ(後拾遺939)

【通釈】〔詞書〕大納言藤原行成が私と雑談しました時に、内裏の物忌に参内するというので急いで帰って、翌朝、「鶏の声に促されまして(慌ただしく帰ってしまいました)」と言って寄越しました。そこで私は「深夜のうちに鳴いた鶏の声は、(孟嘗君が食客の中の鶏鳴の真似の名人を使って関門を開けさせ、まんまと脱出したという)函谷関の故事でしょうか」と言い遣ったところ、折り返し「函谷関ではなく、(恋人たちの逢い引きに因む)逢坂の関です」とありましたので、詠みました。
〔歌〕まだ夜が深いうちに鶏の鳴き声を真似て騙そうと思っても、函谷関ならばともかく、逢坂の関は決して通ることを許さないでしょう。

【語釈】◇行成 藤原行成(971-1027)。右少将義孝の子。書家として名高い。◇函谷関 史記の孟嘗君の故事で名高い関。戦国時代、斉の孟嘗君は秦に使したが、秦王に捕えられそうになり、奇策を用いて函谷関を脱出した。◇鳥のそらね 鶏の鳴き真似。◇はかるとも だまそうとしても。◇よに 世に。「決して」の意で「ゆるさじ」に掛かる。◇あふ坂 逢坂。山城・近江国境の峠道。畿内の北限で、東国へと通じる関があった。「逢ふ(情事を遂げる)」を掛ける。◇ゆるさじ 関所の通過は許さないだろう。あなたとの逢い引きを遂げることは許さないとの意を籠める。

【補記】後拾遺集巻十六、雑二。枕草子「頭弁の職にまゐり給ひて」の章段参照。

【他出】枕草子、後六々撰、五代集歌枕、宝物集、古来風躰抄、定家八代抄、百人一首、女房三十六人歌合、新時代不同歌合、歌枕名寄
(百人一首など第二句を「鳥のそらねは」とする本も多い。)

【主な派生歌】
関の戸は鳥の空音に明けつれどふままくをしき雪ぞふりぬる(俊恵)
関の戸を鳥のそら音にはかれども有明の月はなほぞさしける(藤原定家)
鳥のねを聞くよりやがて相坂のせきとめがたききぬぎぬの空(飛鳥井雅親)
まれにきてあふさか山のかひもなく鳥の空ねにはかられにける(三条西実隆)


更新日:平成17年03月21日
最終更新日:平成23年02月14日