長田王 おさだのおおきみ(ながたの-) 生年未詳〜天平九(737)

和銅四年(711)、正五位下。同五年四月、伊勢斎宮へ派遣される(万葉巻一)。同八年、正五位上。霊亀二年(716)、従四位上近江守。神亀六年(729)、正四位下衛門督。天平四年(732)、摂津大夫。同六年二月、朱雀門前における歌垣で頭を務める。同九年六月、卒去。万葉集に六首、また『歌経標式』に一首みえる。

長田王、筑紫に遣(つか)はさえて、水島を渡る時の歌二首

聞きしごとまこと貴く(くす)しくも(かむ)さびをるかこれの水島(万3-245)

【通釈】伝説に聞いたとおり、まことに立派で、不思議なほど神々しいさまであるなあ、この水島は。

【補記】「水島」は熊本県八代市植柳、球磨川の支流南川の河口にある小島とするのが通説。その地名説話は日本書紀の景行紀十八年四月十八日条を参照。

 

葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ(万3-246)

【通釈】葦北の野坂の浦を通って船出して、水島へ行こう。波よ、決して立ってくれるな。

【語釈】◇葦北の野坂の浦 熊本県芦北町の不知火海に面した海岸。

また長田王の作る歌一首

隼人(はやひと)の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我は今日見つるかも(万3-248)

【通釈】隼人が住む薩摩の瀬戸を、私は今日遥か彼方に眺めるものだなあ。

【語釈】◇隼人の薩摩の瀬戸 現在、黒の瀬戸と呼ばれている海峡。天草諸島の長島と九州本島阿久根市黒之浜の間。◇雲居なす 雲のように、遥か彼方に。

和銅五年壬子(みづのえね)夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺(やまのへ)の御井(みゐ)にして作る歌

山辺の御井を見がてり神風の伊勢をとめども相見つるかも(万1-81)

【通釈】山辺の御井を見に来たついでに、伊勢の少女たちに出逢うことができた。

【語釈】◇山辺(やまのへ)の御井(みゐ) 所在未詳。参考サイト◇見がてり 見に来たついでに。◇神風(かむかぜ) 「伊勢」の枕詞

 

うらさぶる心さまねし久かたの(あめ)のしぐれの流らふ見れば(万1-82)

【通釈】うら寂しい気持になること頻りである。天から降る時雨が流れるように降り続けるのを見れば。

【語釈】◇さまねし 「あまねし」に通じ、「度重なる」の意。◇久かたの 「あめ」の枕詞

【主な派生歌】
浦さぶるあまの時雨の音たてて磯のしほやに冬は来にけり(日野俊光)
沫雪のながらふみれば息つめて身命の琴鳴りいづるなり(山中智恵子)

 

(わた)の底沖つ白波立田山いつか越えなむ妹があたり見む(万1-83)

【通釈】立田山をいつ越えられることだろうか。はやく妻の家のあたりを見たい。

【語釈】◇海の底 「沖」の枕詞◇沖つ白波 ここまでが「立つ」から「立田山」を起こす序。◇いつか越えなむ 早く立田山を越えて故郷の家に帰りたいとの気持。

【補記】左注に「右二首、今案不似御井所作」と疑義を呈している。「和銅五年…」の題詞が掛かるのは、正しくは1-81のみであろう。

【主な派生歌】
風吹けば沖つ白波たつた山よはにや君がひとり越ゆらむ(*よみ人しらず[古今])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成19年02月22日