正親町院 おおぎまちのいん 永正十四〜文禄二(1517-1593) 諱:方仁(みちひと)

永正十四年五月二十九日、後奈良天皇の第二皇子として生まれる。母は万里小路賢房女、吉徳門院栄子。
弘治三年(1557)十月二十七日、後奈良天皇の崩御に伴い践祚。第百六代天皇。当時朝廷の経済は逼迫し、毛利元就などの献金によって三年後にようやく即位の礼を挙げることができた。織田信長が上洛すると、たびたび講和の勅令を要請され、天正八年(1580)の石山本願寺と信長の和議も正親町天皇の勅命によるものであった。天正元年(1573)頃から信長との対立を深め、たびたび譲位を促されるが、拒否を貫いた。政権が豊臣秀吉に移って以後は、秀吉の積極的な宮廷復興策により、その援助を受けて朝廷の立て直しが進められた。天正十三年(1585)、秀吉を関白に任ずる。同十四年十一月、孫の周仁(かたひと)親王(後陽成天皇)に譲位。在位は三十年に及んだ。文禄二年正月五日、崩御。七十七歳。御陵は京都市伏見区の深草北陵。
詠草に『正親町院御百首』(以下『御百首』と略)、『御点取部類』などがある。

「正親町院御百首」続群書類従387(第14輯下)

見花

行人(ゆくひと)にゆきおくれてん今日もまたみやま桜の春の夕暮(御百首)

【通釈】道行く人々に私は遅れて行こう。今日もまた見にやって来た、深山の桜咲く春の夕暮よ。

【語釈】◇みやま桜 深山の桜。「み」に「見」の意が掛かる。

【補記】「行人」は今言う行楽客のようなものか。花見の混雑を嫌って、人に遅れて歩き、夕暮に辿り着けばよいとする。長閑な春の夕の情趣が横溢する。

夕立

鳴神(なるかみ)のただ一とほり一里の風も涼しき夕立のあと(御百首)

【通釈】雷鳴が一里(ひとさと)を一度だけ通り過ぎていった――吹く風も涼しい夕立の後よ。

【補記】「一里」は民家がひとまとまりになっている所。型通りの趣向の夏歌だが、前歌同様、上句には創意がある。歌病として忌む慣わしだった同語の繰り返しを敢えてしている。

早秋

いづれにかさだめて聞かん今日よりの草木が上の秋の初風(御百首)

【通釈】どの草、どの木に定めてその音を聴こうか。今日から草木の上を吹き始める秋の初風よ。

【補記】第三句以下の流れるような調べに風の音が聞こえるような気がする。

【主な派生歌】烏丸光広「黄葉集」
いづくにも今朝立初むる秋かぜに草木が上の露もおくらん

時雨

秋にやはかはらぬ雲の夕しぐれさすがに空の冬ごもりして(御百首)

【通釈】秋と変わらない雲が降らす夕時雨だろうか――いや、さすがに空が冬籠りして寒々とした雲に覆われている

【補記】冬歌。「やは」は反語。

【参考歌】後醍醐天皇「臨永集」
空はなほ冬ごもりせる雪のうちにわれのみ春と鶯ぞなく

菊契多秋

千とせをも色香にこめて幾秋か花にさきいづる庭の白菊(宸翰集)

【通釈】来るべき千年をも色と香に籠めて、これから幾秋かけて花と咲き出ずるのだろう、庭の白菊よ。

【補記】弘治元年(1555)の御製。題は「菊に多くの秋を契る」、不老長寿の霊草とされた菊にかけて長命を予祝した。菊はまた皇室の御紋でもある。佐佐木信綱編『列聖珠藻』より。

【参考歌】藤原忠通「千載集」
君が代を長月にしもしら菊のさくや千とせのしるしなるらん


最終更新日:平成17年11月20日