安藤野雁 あんどうぬかり(-のかり) 文化七〜慶応三(1810-1867) 本名:北村政美

生年は一説に文化十二年。奥州伊達郡桑折(こおり)村に陣屋役人北村新兵衛の子として生れる。幼名を謙次と言った。通称、刀禰。幼くして父を失い、安藤政直の養子となる。若い頃、豊後日田に赴き、この地で妻を亡くす不幸に遭った。その後江戸に出、国学者塙忠宝(はなわただとみ)塙保己一の子)に学ぶ。晩年は諸国を漂泊し、慶応三年三月二十四日、武蔵国熊谷で没する。五十八歳。「常に弊衣をまとひ縄を帯とし、雨中草履をはいて、悠々歌を誦しつつゆくといふやうな風の人で、非常に酒を嗜み、奇行逸話が少なくないといふ」(校註国歌大系解題)。
著書に万葉集の注釈書『万葉集新考』、元治元年(1864)の自撰家集『野雁集』がある(続歌学全書十一・校註国歌大系十九などに収録)。生前は無名に近かったが、維新後、渡辺刀水によって顕彰され、また佐佐木信綱らによって評価されて広く知られるようになった。

以下には『野雁集』より九首を抄出した。

武蔵の橘の浦にて

春の色の海よりのぼるかげろふに半ばそめたる安房の浦なみ

【通釈】春の色を湛えている海から昇る曙光を受けて、半ば彩られている安房の浦波よ。

【語釈】◇橘の浦 武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)の浦。現在の川崎港か横浜港あたりであろう。◇かげろふ 万葉集に曙光を「かぎろひ」と呼んだと思われる例があり、この歌でも曙光を思い浮かべるべきであろう。◇安房(あは) 千葉県南端部。

【補記】現在の地名で言えば、東京湾を隔てて神奈川県側から千葉県側の海を眺めた歌。

さくらの花をよめる

いづこかはさして我が宿行きまじり野にも山にも花のへに寝む

【通釈】どこを我が宿と定めたりしようか。野にも山にも混じり込んで、花のほとりに寝て過ごそう。

【補記】第三・四句は「野にも山にも行きまじり」の倒置。野雁の放浪の人生をよく象徴する一首。野雁の桜の歌としては「酔ひみだれ花にねぶりし洒さめてさむしろ寒し春の夕風」も名高いが、俗っぽく、採れない。

さみだれの晴れぬるによめる

さみだれの雨今こそは晴れぬなれあかりて匂ふ姫ゆりの花

【通釈】さみだれの雨が、今やっと晴れたようだなあ。ぱっと明るく咲き匂う姫百合の花よ。

【補記】姫百合は濃赤または黄の花を上向きに咲かせる。梅雨の季節におけるこの花の存在感を鮮やかに捉えた。

水無月のつごもりの夜

あはれなる空の蛍のゆくへかな秋風たかく吹きやしぬらむ

【通釈】空へと消えてゆく、あわれな蛍のゆくえよ。秋風が高く吹いて、舞い上げられてしまったのだろうか。

【補記】『野雁集』の大半はこのように平明な古今調の歌で占められている。この歌はその中で比較的出来の良いもの。

【本歌】在原業平「後撰集」
ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ

秋の夕のこころをよめる(二首)

ながめむかふ心々にかなしさの色さだまらぬ秋の夕雲

【通釈】眺めて向かうその時々の心によって、哀しさの色も次々と変わる秋の夕べの雲よ。

【補記】初句を「ながむれば」とする本もある。

 

さぶしさは水底までにとほりけり夕日のすめる秋の砂川

【通釈】眺めていると、寂しい思いが水底(みなそこ)まで浸み透るのだなあ。夕日が射して底まで澄み透っている秋の砂川よ。

【補記】和歌の常套では水に「すむ」のは月。「夕日のすめる」は特異な感覚表現と言える。同題の一首「水あせて石あらはるる山川に夕日ながるる秋のいろかな」も捨て難い。

駿河国庵原の郡岩淵といへる所は富士川のほとりなり。そこのちご屋といへるは旅人やどらするを生業(なりはひ)にかふる家なりければ、宿りてある年の春の始めより秋の終りまでありける間、ときどきことにふれて歌ともなくすずろにいへりける事ども

軒端よりふりさけみれば富士のねはあまり(にはか)にたてりけるかな

【通釈】軒端から振り仰ぐと、富士の高嶺はあまりにもだしぬけに高く聳え立っていることよ。

【補記】ある年の春から秋、駿河国庵原郡岩淵の宿「ちご屋」に滞留していた間、事に触れて詠んだ三十八首より。

 

ゑのころは多くの子供もたりけり母のむな()のたらぬばかりに

【通釈】犬ころはたくさん子供を生むのだなあ。母犬の乳房が足りないほどに。

【補記】これも駿河の「ちご屋」での作。「ゑのころ」は犬ころ。『野雁集』にはもう一首犬を詠んだユニークな歌があり「ゑのころは此の頃こそは生まれしか早く恋するものにぞありける」。

 

わが顔をかべの穴よりうかがひつ鼠の友とおもふなるべし

【通釈】壁の穴から鼠が私の顔を窺い見ていた。自分を仲間と思っているのだろう。

【補記】この歌も「ちご屋」滞在中の詠。同地での作には自由な発想で詠んだ歌が多く、奇行の放浪歌人野雁の本領発揮といった感がある。


公開日:平成18年09月20日
最終更新日:平成21年02月13日