坂上望城 さかのうえのもちき 生没年未詳

是則の子。天暦五年(951)十月、梨壺の和歌所寄人となり、清原元輔大中臣能宣源順・紀時文と共に万葉集の訓点作業と後撰集の撰集に携わる。この時の肩書は御書所預。天徳四年(960)内裏歌合に兼盛・中務らと共に出詠。官人としては、外記・美濃介などをへて、従五位下石見守。死去は天延三年(975)・貞元三年(978)・天元三年(980)などの説がある。拾遺集初出。勅撰入集二首。

天暦御時歌合に

ほのかにぞ鳴きわたるなる郭公み山をいづるけさのはつ声(拾遺100)

【通釈】ぼんやりと鳴いて渡るようだ。ほととぎすの、山から出て来る今朝の初声よ。

【補記】天徳四年(960)の内裏歌合。


最終更新日:平成16年04月30日