藤原通俊 ふじわらのみちとし 永承二〜承徳三(1047-1099)

大宰大弐従三位経平の次男。実母は高階成順女(のち、父の正室藤原家業女の猶子となったらしい)。伊勢大輔は母方の祖母。康資王は母方のおば。同母兄通宗も後拾遺集に入集する歌人。妹の経子は白河天皇の内侍として寵愛され、覚行法親王を生んだ(皇胤紹運録)。
後冷泉朝の康平二年(1059)、従五位下。その後、後三条朝に仕えたが、延久四年(1072)白河天皇の即位とともに近臣として取り立てられ、蔵人・右中弁・蔵人頭などを歴任し、応徳元年(1084)には参議に就任。白河天皇譲位後の寛治二年(1088)、白河院別当となり、正三位。同八年八月、権中納言。同年十二月治部卿を兼任し従二位に昇叙。承徳三年(1099)八月十六日、五十三歳で薨去した。
承暦二年(1078)の内裏歌合をはじめ、多くの歌合に出詠し、応徳三年(1086)の『若狭守通宗朝臣女子達歌合』では判者を務めた。白河天皇より勅撰集編纂を命じられ、応徳三年九月、『後拾遺和歌抄』(通称は『後拾遺和歌集』)を撰進した。当時の歌壇の重鎮であった源経信は『難後拾遺』を書いて通俊の撰集態度を批判し、通俊も『後拾遺問答』を書いて応酬した。後拾遺集初出、勅撰入集二十七首。漢詩文にもすぐれた。『通俊卿記』ほか著作の名が伝わるが、散逸。家集も伝わらない。

太神宮の焼けて侍りけることしるしに、伊勢の国にくだりて侍りけるに、斎(いつき)の宮のぼり侍りて、かの宮、人もなくて、桜いとおもしろく散りければ、立ち止まりてよみ侍りける

しめ結ひしそのかみならば桜花惜しまれつつや今日は散らまし(後拾遺136)

【通釈】神宮は火事で焼けてしまったし、斎宮は都へのぼってしまわれて、伊勢の宮はひっそりと桜の季節を終えようとしている。注連縄を張り巡らして斎宮をお迎えしていた当時であったなら、この花も、今日は大勢の人に惜しまれながら散っていただろうかなあ。

【語釈】◇そのかみ 当時。「その神」を掛けるか。

承暦二年内裏後番歌合に、五月雨をよみ侍りける

つれづれとふる五月雨に日は暮れぬ軒のしづくの音ばかりして(続後拾遺206)

【通釈】梅雨の雨が単調に降り続き、手持ち無沙汰に過ごすうち、今日も一日が暮れてしまった。軒端の雨垂れの音ばかりが聞えて…。

【語釈】◇ふる 「(雨が)降る」「(時を)経る」の掛詞。

経平卿筑紫へまかりけるに具してまかりける日、公実卿のもとへつかはしける

さしのぼる朝日に君を思ひ出でむかたぶく月に我を忘るな(金葉348)

【通釈】私は遠い西国へ下ってゆきますが、のぼる朝日を見てあなたを思い出しましょう。沈もうとする月を見たら、あなたも私を忘れずに思い出してください。

【語釈】◇経平卿 通俊の父。◇公実卿 藤原公実(きんざね)。権大納言に至る。歌人としても名高い。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日