源雅光 みなもとのまさみつ 寛治三〜大治二(1089-1127)

村上源氏。広綱の子で顕房の養子かという(和歌文学辞典)。尊卑分脈は雅兼の子と伝えるが、二人の年齢差を考えると無理がある。
典薬助・式部少輔・左近中将などを経て、従五位上治部大輔に至る。大治二年(1127)十月三日、卒去。
長治元年(1104)五月、源広綱家歌合に参加。その後、永久三年(1115)十月の内大臣家歌合、元永元年(1118)十月の内大臣家歌合、保安二年(1121)九月の関白内大臣家歌合、大治元年(1126)八月の摂政左大臣家歌合など、藤原忠通主宰の歌合で活躍した。金葉集初出。勅撰入集十六首(金葉集を二度本で数えた場合)。

法性寺入道内大臣のときの歌合に、旅宿雁といへる心をよめる

さ夜ふかき雲ゐに雁も音すなり我ひとりやは旅の空なる(千載508)

【通釈】夜更けの空に、雁も鳴き声をあげているよ。旅の道中にあって不安を感じているのは、私一人だけだろうか。そんなことはないのだ。

【補記】旅の宿りで雁の声を聞いたという設定。大治元年(1126)八月の摂政左大臣(忠通)家歌合、二番右勝。詞書の「内大臣のとき」は誤り。

摂政左大臣家にて恋の心をよめる

かずならぬ身をうぢ川のはしばしと言はれながらも恋ひわたるかな(金葉509)

【通釈】人の数にも入らない我が身を憂しと思って、宇治川の橋ではないが、取るに足らない端くれと言われながらも恋し続けることだなあ。

【本歌】よみ人しらず「拾遺集」
かずならぬ身をうぢ河のあじろ木におほくの日をもすぐしつるかな

【補記】「うぢ川」に「憂」、「はしばし」に「橋」を掛けた言葉遊びがある。また、「わたる」は橋と縁のある語。


最終更新日:平成14年10月29日