徳大寺公継 とくだいじきんつぐ 安元元〜嘉禄三年(1175-1227) 号:野宮左大臣

もとの名は公嗣。左大臣実定の三男。母は上西門院女房、備後。白拍子五条夜叉との間に実基を、実房女との間に実嗣をもうけた。
寿永二年(1183)、九歳で叙爵。文治三年(1187)、公継に改名。右中将などを経て、建久元年(1190)七月、十六歳で参議となる。建久二年(1191)十二月、従三位。建久六年(1195)四月、正三位。同年十一月、中宮権大夫。同九年一月、権中納言。正治元年(1199)一月、従二位。建仁二年(1202)一月、正二位。同年十月、春宮権大夫。閏十月、中納言。建仁四年(1204)一月に権大納言、元久三年(1206)三月に大納言と昇り、承元二年(1208)、内大臣に就任。建暦元年(1211)、右大臣に転ずる。承久三年(1221)、承久の乱に際しては西園寺公経の誅殺を諫止したとの伝がある(『承久記』流布本)。元仁元年(1224)、左大臣。嘉禄元年(1225)、従一位。同三年正月二十三日、病のため辞職し、同月三十日、薨去。五十三歳。
建久九年(1198)の「御室五十首」に詠進したのち、後鳥羽院歌壇に迎えられ、「新宮撰歌合」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。新古今集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集には十七首を採られている。琵琶などにもすぐれた。日記『宮槐記』が一部残存する。

日かげみぬ深山隠れに流れきて雪げの水のまた氷りぬる(千五百番歌合)

【通釈】奥山の雪解け水は、日の当たらない山陰の谷をずっと流れてきて、その間にふたたび氷ってしまったのだ。

【語釈】◇深山(みやま) 里から幾つも山を隔てたところにある山。「木が鬱蒼と繁った山」のイメージも伴う。

【補記】千五百番歌合、六十四番左勝。玉葉集に入集したが、詞書「守覚法親王家に五十首歌よませ侍けるに、春歌」は誤り。

【他出】夫木和歌抄、玉葉集、和漢兼作集、六華集、三百六十首和歌

【参考歌】藤原親隆「久安百首」
日かげみぬ岩まがくれのかたそばにまだありけりなこぞのふる雪

いまさらに花ゆゑなにか思ひ出でむ忘るる時のあらばこそあらめ(三百六十番歌合)

【通釈】今更、みごとな桜の花を見たからと言って、将来、何を思い出すことがあろう。毎年、花を見るたびに感嘆してきたのだ。忘れる時があるならともかく、そんなことはあり得ないのだから。

【補記】今年も桜の花に感嘆したが、年ごとの桜の記憶は消えることがないから、今更思い出には残るまい、という逆説。『三百六十番歌合』は後鳥羽院はじめ、正治二年(1200)当時の現存歌人三十六名の作を番えた紙上歌合。

鳥羽にて、竹風夜涼といへることを、人々つかうまつりし時

窓ちかきいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢(新古257)

【通釈】窓のそばに生える、わずかな竹林に風が吹いて、もう秋なのかと驚きつつ目が覚める――はかない夏の夜の夢から。

【語釈】◇鳥羽 平安京南郊の鳥羽離宮。◇いささむら竹 万葉集の本歌(下記参照)に基づく。◇秋におどろく まだ夏であるのに、風の涼しさに秋なのかと「おどろく」。「おどろく」は「ハッと気づく」「目が覚める」などの意。

【本歌】大伴家持「万葉集」巻十九
我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
  藤原敏行「古今集」
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
【本説】白氏文集・和漢朗詠集「夏夜」(→資料編
風生竹夜窓間臥(風の竹に生る夜、窓の間に臥せり)
【参考歌】藤原実定「林葉集」
秋きぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は

夏恋

よそにては軒の橘かをる夜に昔語りをしのぶとや見む(水無瀬恋十五首歌合)

【通釈】こんなふうに軒先の橘が香る夜、私は人と思い出話をしていて、昔をなつかしがっていると他人からは見えるだろうか。(本当は、そうではないのだが。)

【語釈】◇よそにては 他人から見れば。末句の「見む」に掛かる。◇橘 橘の花。古今集の歌「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」から、その香は昔を思い出させるものとされた。◇しのぶ 偲ぶ。古家の軒にはシノブ草が生えるとされたことから、「軒」の縁語になる。

【補記】家で誰かと思い出話をしている、という場面設定なのであろう。軒を過ぎてくる初夏の風は、橘の香とともに部屋の中に吹き込んでくる。すると、古歌にあるように、昔の恋人の袖の香が思い出される。そうして話手は物思いに耽るのである。内心を知らない人は、ただ昔話をなつかしがっていると見ているだろうが、実は…という歌であろう。心をあからさまに表わす言葉は一つも用いずに、ただ本歌からの暗示のみによって、懐旧の恋を詠んでいるのである。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日