後堀河院 ごほりかわのいん 建暦二〜天福二(1212-1234) 諱:茂仁(ゆたひと)

守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は北白河院藤原陳子(権中納言基家のむすめ)。高倉天皇の孫。中宮藻壁門院(九条道家の娘)との間に秀仁親王(四条天皇)をもうける。
贈大僧正仁慶の弟子となり十楽院にいたが、承久の乱で仲恭天皇が廃されると、西園寺公経の推挙により承久三年(1221)七月、十歳で践祚、同年十二月に即位した。父の守貞親王(出家して行助法親王と称されていた)は太上天皇の尊号を贈られて院政をとった(後高倉院)。貞永元年(1232)六月、藤原定家に新勅撰集の撰進を命ずる。同年十月四日、秀仁親王に譲位し、院政をとった。文暦元年(1234)六月、定家より新勅撰集の未定稿本を奏覧されるが、完成を見ることなく、同年八月六日、崩御。二十三歳。
定家を歌の師とする。定家の歌書『秀歌大体』は後堀河天皇に献じられたものと伝わる。新勅撰集に五首入集。御集があったらしいが(夫木抄)、伝わらない。

うへのをのこども、年の内に立つ春といへる心をつかうまつりけるついでに

あらたまの年も変はらで立つ春は霞ばかりぞ空に知りける(新勅撰1)

【通釈】年が変わらないうちに立った春は、ただ霞ばかりで空に知ったのだった。

【補記】殿上人が「年内立春」の題で歌を奉った時に詠んだ歌。新勅撰集巻頭歌。「年の内に立つ春」とは、暦の上で新年よりも先に立春が来ることを言う。古今集の巻頭歌「年の内に春は来にけりひととせをこぞとや言はむことしとや言はむ」などと同一主題。

うへのをのこども、海辺月といへる心をつかうまつりけるついでに

和歌の浦あし辺のたづの鳴く声に夜わたる月のかげぞ久しき(新勅撰271)

【通釈】和歌の浦――その葦辺にいる鶴の鳴く声がして、夜空を渡る月が久しく照り続けている。

【補記】和歌の浦は万葉集以来の歌枕。その「葦辺の鶴の声」を詠んだのは、言うまでもなく赤人の名歌を踏まえている。夜空を渡る月の光が「久しき」と言うのは、秋の夜の長さを言うばかりでなく、この地の歌枕としての久しい歴史への思いを籠めているのだろう。

【本歌】山部赤人「万葉集」
若の浦に潮みちくれば潟をなみ葦辺をさしてたづ鳴き渡る


最終更新日:平成14年08月03日