安宿王 あすかべのおおきみ 生没年未詳 略伝

父は長屋王、母は藤原不比等の女。同腹の兄弟に黄文王・山背王がいる。
天平元年(729)の父王の変の際は、母が藤原不比等の娘だったため罪を免れた。同九年、従五位下に初叙され、同年十月、さらに従四位下に越階昇叙。以後、玄蕃頭・治部卿・中務大輔・播磨守・讃岐守などの重職を歴任するが、天平勝宝九歳(757)、橘奈良麻呂の乱に連座し、妻子とともに佐渡へ配流された。のち許されて帰京したらしく、宝亀四年(773)、高階真人を賜姓される。
万葉集に二首の歌を残す。

七日、天皇、太上天皇、皇太后、ひむかしの常宮の南の大殿にいまして、肆宴とよのあかりきこしめす歌一首

印南野いなみのの赤ら柏は時はあれど君をが思ふ時はさねなし(万20-4301)

右の一首は、播磨国守安宿王まをしたまへり。古今未詳。

【通釈】印南野の赤ら柏は、御膳具として時に応じ用いられることはありますが、私が大君を慕い奉る気持ちは、いつと時を分かつことが全くございません。

【語釈】◇印南野 播磨国印南郡の野。兵庫県加古川市から明石市にかけての丘陵地。◇赤ら柏 柏は赤く色づくことはないので、ここは清浄な柏という意味かという(万葉集古義など)。◇時はさねなし サネは「真実に」「まことに」の意の副詞。

【補記】題詞の「七日」は天平勝宝六年正月七日。左注の「古今未詳」は、古歌を引用したのか、新しく歌を作ったのか、不明であるということ。歌柄から、播磨の国の古歌のようにも見える。

八月十三日、内の南の安殿やすみとのいまして、肆宴とよのあかりきこしめす歌

官女をとめらが玉裳たまも裾曳くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ(万20-4452)

右の一首は、内匠頭兼播磨守正四位下安宿王まをしたまへり。

【通釈】乙女たちが美しい裳の裾を引いて歩くこの御庭園に、秋風が吹いて、花が散り落ちております。

【補記】題詞「内の南の安殿」は、大極殿の南院。「在して」の主語は孝謙天皇。「肆宴」は、次の家持の歌(4453)から、夜の宴だったと知れる。仲秋の明月を賞でる宴か。天平勝宝七歳(755)。


最終更新日:平成15年12月27日