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桑はアジアの温帯から亜熱帯にかけて広く分布する、クワ科クワ属の落葉高木。葉は蚕の餌になり、樹皮は製紙の原料となり、材は家具・細工に用いる。日本人のと言うより、アジアの民の生活に深いつながりを持って来た樹木と言えよう。
古人の暮らしに密着していた桑の木は、さすがに万葉集には取り上げられている。
『万葉集』巻七 譬喩歌 寄木 作者未詳
たらちねの母がそのなる桑すらに願へば
衣 に着るといふものを
願えば桑の葉も衣服になるように、恋も成就しないわけはない、という歌だろう。「そのなる」(原文「其業」)は「その業(な)る」か「園なる」か、いずれにしても桑の木の世話をするのは母親の役目だったようだ。
春に咲く桑の花は、薄緑がかった白色で、目立たない。むしろ眼を惹くのは、花の終わった初夏に赤く結実し、熟すると紫がかった黒に変わる、小さな果実である。熟したのを口に含めば、細かい顆粒の舌触りが面白く、一噛みもすればほのかに甘酸っぱい味を残して融けてしまうかのようだ。
桑の実と言えば、斎藤茂吉の若き日の歌を思い出さずにはいられない。
『赤光』 折に触れ
はるばると母は
戦 を思ひたまふ桑の木の実の熟 める畑に
明治三十八年(1905)、夏休みに郷里の山形に帰省し、畑に出て働いていた母の姿を見ての作と言う。茂吉の長兄・次兄は日露戦争に出征していた。同集に続く一首は「たらちねの母の辺(べ)にゐてくろぐろと熟める桑の実を食ひにけるかな」とあり、また同集「死にたまふ母」連作中には「桑の香の青くただよふ朝明(あさあけ)に堪(た)へがたければ母呼びにけり」もある。茂吉においても、桑と母のつながりは緊密であった。思えば茂吉の歌の根っこは、万葉時代にも通底するアジア的な生活民俗を豊かに吸い上げていたのだ。
なお、掲出歌は改撰版『赤光』に拠る。初版では第四・五句が「桑の木の実は熟みゐたりけり」となっている。
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『霊元院御集』 (途中契恋)
たをやめの桑とる道のすぎがてもただかくこそは契りおきけめ
『桂園一枝』 香川景樹
さみだれの雲吹きすさぶ朝かぜに桑の実落つる小野原のさと
『大江戸倭歌集』 樋口光徳
あぜ伝ひ桑つむ見れば賤の女がこがひいとなき夏はきにけり
『海やまのあひだ』 釈迢空
桑の畑 若枝のもろ葉うちゆすり、とほり照りつつ 光りしづけし
公開日:平成18年2月15日
最終更新日:平成18年2月15日