折節の記



―九月十三夜―

 今日は旧暦九月十三日。今夜の月は、二度目の秋の名月、いわゆる「後(のち)の月」です。折から収穫期を迎える大豆や栗をお供えするので、「豆名月(まめめいげつ)」「栗名月(くりめいげつ)」などとも呼ばれた、と歳時記には書かれているでしょう。また、地方によっては、八月十五夜の名月を賞美した年に、九月十三夜の月を見逃すことを、「片見月」と言って忌む風習があるそうです。
 九月十三夜の月見の習慣は、中国や朝鮮半島には見られず、日本独特の風習だろうと言われています。しかし、なぜ八月は十五夜なのに、九月は十三夜なのでしょう?
 由来は諸説あるようです。菅原道真が大宰府で九月十五日夜に詠んだ詩が、誤って十三日の作として伝えられたため、とする説など。これは江戸時代の学者の説だそうですが、ちょっと信じられません。現代の民俗学者は、農耕儀礼との深い関係を指摘します。しかし「なぜ十三日なのか」を納得させてくれる説を私はいまだ知りません。
 平安時代後期の藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、ある年の九月十三日夜、たまたま明月を愛でていた宇多天皇(在位西暦887〜897)の発意により、この夜が「名月の夜」と定められた由、書かれています。
 これは貞享五年(1688)に芭蕉が書いた「芭蕉庵十三夜」という文にも見られる説です。

 仲秋の月は、更科の里、姨捨山になぐさめかねて、なほあはれさの目にも離れずながら、長月十三夜になりぬ。今宵は、宇多の帝のはじめて詔をもて、世に名月と見はやし、後の月、あるは二夜の月などいふめる。

 これはあり得ない話でもなさそうです。というのは、九月十三夜の月を詠んだ和歌を探してみると、最も古いのは、醍醐天皇の延喜十九年(919)九月十三日の日付がある、『躬恒集』の次の歌なのです。

   清涼殿の南のつまにみかは水ながれいでたり。
   その前栽にささら河あり。延喜十九年九月十三
   日に賀せしめ給ふ。題に月にのりてささら水を
   もてあそぶ。詩歌心にまかす

ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月

 「月見の宴」が行なわれたとは書いていないのですが、この詞書と歌からすると、当時すでに十三夜の月を愛でる慣例があったことが窺われます。醍醐天皇の父である宇多天皇は、和歌をはじめ国風文化を重んじ、絢爛たる王朝文化隆盛の基礎を据えた施政者でした。唐の中秋節に対抗するように、わが国独自の「名月の夜」を創意したという風流なエピソードは、宇多天皇には如何にも似つかわしく思われるのです。
 九月十三夜の月を詠んだ歌では、平安中期の能因法師のものが名高いでしょう。

   九月十三夜の月をひとりながめて思ひ出で
   侍りける

さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔みしかな(能因集)

 平安後期になると、十三夜の月は中秋の名月に劣らずよく詠まれるようになります。

   九月十三夜
雲きえし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける(西行「山家集」)

「秋のなかばの空」は八月十五日の月夜です。それよりも、晩秋の十三夜の方が「名に負へる」(名に相応しく素晴らしい)と西行法師は言っています。この歌では、理由はよくわからないのですが…。
 しかし、次の藤原俊成の歌には、なぜ十三夜が好まれたのか、その理由のヒントが隠れているようにも思われます。

   十三夜月
先まくりいま二夜をば満てずしてくまなきものは長月の月(「丹後守藤原為忠家百首」)

「先まくり」はよく分かりませんが、「先回り」と同じような意味でしょうか。「先回りして、あと二夜を満たさずに、隈なく照らすのは九月十三夜の月である」。
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」とは『徒然草』の名文句です。雲ひとつない月夜より、少し雲に隠れた月。満月よりも、少し欠けた月。いかにも中世的・隠者的な風雅の趣味でした。
 こうして、中世になると、九月十三日の晩には歌会や歌合がさかんに催され、十三夜の月が競って歌われるようになりました。

   九月十三夜、寄月恋といふことを人々に
   詠ませさせ給けるついでに

てる月は我が思ふ人の何なれや影をしみれば物のかなしき(花園院「玉葉集」)

(平成十二年十月十日)


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