天平時代の女性歌人といえば、まず坂上郎女、笠女郎、狭野茅上娘子。この三人に指を屈せざるを得ませんが、紀小鹿女郎も逸することはできない存在でしょう。彼女は大伴家持の年上の恋人でした(少なくとも歌の上では)。
家持との恋を語る前に、彼女の名前のことに少し触れておきたいと思います。この人は古代の女性には珍しく、名前が分かっていて、これはちょっと異例なことだからです。いうまでもなく、当時の人々、ことに女性はたやすく本名を公表したりはしませんでした。
たとえば「笠女郎」は「笠氏出身の令嬢」(既婚未婚を問わない)といった程度の意味をもつ呼称で、彼女のほんとうの名は知られていません。また「大伴坂上郎女」は、大伴氏出身の令嬢で、「坂上」に住んでいたためにこのような通称で呼ばれていた女性、を指しています。
なお、万葉集で使われている郎女・女郎(ともに「いらつめ」とよむ)は、男性の卿・大夫(ともに「まへつきみ」)にあたる語で、大雑把にいえば高貴の女性に対する敬称です(辞書には間違った説明がされていることが多く、注意が必要です)。家族に極めて身分の高い官人(大臣や大納言など)がいる場合に限り、「郎女」の書法を用いたようです。これは、男性官人につき、
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さて、タイトルには「紀小鹿女郎」と記しましたが、彼女は万葉集には「紀女郎」「紀
ここにいう「名」が本名なのか、字(あざな=通称)なのかは、私には判断しかねます。しかし、これが彼女の日常の呼称であったことは確かでしょう。それは「坂上」とか「茅上」といった地名を付した通称とは明らかに違う、親密な呼び名です。
鹿人のむすめだから小鹿だったのか。あるいは、若鹿のように愛らしい少女だったことから、こう呼ばれるようになったのでしょうか(少鹿にせよ小鹿にせよ、「を」は美称であり、若く美しい鹿のことです)。
それはともかく、なぜ彼女の場合、日常の呼び名らしき名が記録されたのでしょうか。他にたくさんいる紀氏出身の女性と区別するためでしょうか。しかし、それであれば父と夫の名を記すだけで十分だったはずです。
万葉集に収められた彼女の歌は十二首。彼女の人生がどんなものだったか、ある程度のことは推測できます。
まず、父である紀鹿人が万葉集に残した歌(旋頭歌)を見てみましょう。
典鑄正紀朝臣鹿人、衛門大尉大伴宿禰
稲公 が跡見 の庄 に至りてよめる歌一首
射目 立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾 は持ち去 なむ奈良人のため(1549)
鹿人が大伴稲公の田荘を訪ねた時、撫子の花をたくさん手土産にした、といった内容です。稲公が鹿人の親友だったことが窺われますが、この稲公という人は坂上郎女の弟で、すなわち家持の叔父になります。親族の交流の中で、小鹿と家持は幼い頃から知り合う機会があったかも知れません。
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次に、夫安貴王の歌を読んでみましょう。王は天智天皇の末裔で、志貴皇子の孫とも、川島皇子の孫とも言われています。父が
安貴王の歌一首、また短歌
遠妻の ここに在らねば 玉ほこの 道をた遠み
思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からぬものを
み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも
明日往きて 妹に言問ひ 吾が為に 妹も事無く
妹が為 吾も事無く 今も見しごと たぐひてもがも(534)反歌
しきたへの手枕まかず間置きて年そ経にける逢はなく
思 へば(535)右、安貴王、因幡八上釆女を
娶 り、係念極て甚しく、愛情尤 も盛 なり。時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に退却 く。是 に王意 悼怛、聊か此歌を作 めりと。
左注によれば、
因幡八上釆女は藤原麻呂の妻でした。『歌経標式』という歌論書を作った浜成の母親にあたる人です(尊卑分脉)。現役の采女と通じたら、天皇への侮辱となり、不敬罪どころか大不敬罪ですから、「もと采女」なのです。なぜ姦通が「不敬罪」とされたのかは、よく分からないのですが、夫の麻呂の身分高さゆえでしょうか。
万葉集の排列からすると、養老末年(西暦724年前後)頃の事件だったと思えます。これは相当のスキャンダルになったことでしょう。小鹿の生年は大宝年間(701〜704)頃と思えますから、既に王と結婚していた可能性は高く、年若い妻には深い心の傷として残ったことが想像されます。
次に紀女郎の最も早い時期の作と推測される三首の歌(天平四年以後)を見ましょう。これも巻四、上の安貴王の歌の後に収録されています。
紀女郎怨恨歌三首鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也
世の中の
女 にしあらば直 渡り痛足 の川を渡りかねめや(643)
流布しているテキストと一部違うところがあると思いますが、『萬葉集古義』などを参考にした、私なりの訓です。
「世の常の女なら、たやすく川を渡って、恋しい人の後を追うだろうに、私にはそれが出来ない」という内容の歌です。痛足川は三輪山の麓を流れる巻向川のこと。
これはなかなか斬新な歌だったと思います。上代の和歌は、共同体の中で共有された感情や心情を詠む場合が多いのですが、この歌は、「私は世間の女のようにはできない」と、自己の特異性を言い放っています。こういうのは、天平時代になって初めて出て来た表現なのです。
「世の常の女ではない」という言い方から、私は彼女の誇り高さを感じずにいられません。プライドが高いというのではなく、俗情に流されることを拒絶する純潔を感じるのです。
二首目、
今は
吾 は侘びそしにける息の緒に思ひし君を縦 さく思へば(644)
「息の緒に」は、命をかけて・自分の命のように大切に、といった意味です。「縦さく」、この<ゆるす>は、手放す・我が身から引き離す意。命のように大切にしていた貴方と、とうとう別れ別れになる…「侘び」は今言う侘びしさでなく、もっと激しい、惑乱した心情をあらわす語です。三首目は、
白妙の袖別るべき日を近み心にむせび
哭 のみし泣かゆ(645)
別れの日が近づいて、私の心は泣いてばかりいる。彼女には、後を追ってゆくことが出来ないからです。
以上三首は「怨恨」を主題とした虚構の詩である、などという説が最近は主張されているようです。いわば題詠歌ということですが、私には漢詩や王朝和歌に偏りすぎた見方のように思えます。題詠にしては、作者の個性も私的な身辺性もつよく出過ぎているのです。
こういう読み方を現在の実証主義的(?)万葉学者は否定するでしょうが、私はやはりこの歌は、姦通事件を起こした前科のある夫と別れるに際して詠まれた歌だろうと想像します。題詞の脚注にわざわざ夫安貴王の名を記している点にも、注意してください。そうした背景を視野に入れて読まれることを、万葉集の編纂者は期待しているのです。何より、そう読んでこそ、この歌が、この歌の真情が、最もよく理解できると思えます。
安貴王の事件がスキャンダルとして広く知られたように、この三首は「紀女郎の怨恨歌」の名で、都の人々に(少なくとも大伴氏や紀氏などの交際圏に)知れ渡ったに違いありません。
ようやく本題(のつもりだったこと)に入りますが、既に長くなってしまったので、あとは読んでくださる方の想像に委ねつつ、簡単に触れるだけにしたいと思います。
世は天平の時代となり、平城京は偉容を整えましたが、その裏で、政争の火種は絶えず、聖武天皇は天平十二(740)年、奈良を捨てて
当時、天皇に近侍する
板葺 の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ち参り来む(779)黒木取り草も刈りつつ仕へめど
勤 しき汝 と誉めむともあらず(780)
家持が紀女郎に贈った歌です。新京に家を造ることになった女郎のために、家持は黒木を取ってきたり、草を刈ったり、色々尽くすのですが、「甲斐甲斐しい男だ」と褒めてもくれない、と不満を言っています。もちろん、冗談半分に言っているのですが。
小鹿の方も、そのお返しでしょうか、合歓の花と茅花を「自分の手で採ってきたのよ」と言って、家持のもとに送ってやります。
戯奴 がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花 ぞ食 して肥えませ(1460)
「わけ」は、当時
「茅花」はイネ科の多年草、チガヤの花穂。晩春、まだ白い穂が出ない頃に摘み、乾燥させて食用に蓄えておきました。私は食べたことがありませんが、ほのかな甘みがあるとか。根も食用・薬用になるそうで、チは乳に通じ、古来、滋養物とみとめられていたようです。家持は痩せていたのでしょうか。年上の女らしい余裕を見せつつ、相手を思いやった心憎い歌です。
家持の返歌はこうでした。
吾が君に
戯奴 は恋ふらし給 りたる茅花を喫 めどいや痩せにやす(1462)
頂いた茅花をいくら食べても、恋の病で痩せる一方だ、と言うのです。これまた見事なカウンターでした。
女郎は次のような歌も贈りました。
昼は咲き夜は恋ひ
寝 る合歓木 の花君のみ見めや戯奴 さへに見よ(1461)
合歓の花は、午後から夕方にかけて咲き、夜は閉じてしまいます。その花のように「昼は華やかに咲き、夜はひっそりと恋に焦がれて寝る私―ご主人様である私だけこんな目にあってよいでしょうか、あなただって同じ目をみなさい」。
合歓の木は、夜になると葉が重なり合うように閉じることから、漢詩などでは共寝の象徴として用いられました。それゆえか、この歌の「恋ひ寝る」を共寝の意に取って鑑賞している本がありましたが、誤りです。共寝を「恋ひ寝る」などと言う日本語はありません。一緒でないから「恋ひ寝る」のです。女官だった紀女郎は、昼は宮廷で明るく振る舞い、夜は萎れて独り寝する自分の姿を、合歓の花に譬えてみせたのでしょう。
こんな歌をもらった若い家持が、女郎に熱をあげないはずはなかった…という気がするのですが、しかし、同じ頃の贈答と思われる次の女郎の歌は、ためらいがちに恋を拒絶しているようにみえます。
紀女郎が大伴宿禰家持に贈れる歌二首
神さぶと
否 にはあらずはたやはたかくして後に寂 しけむかも(762)
「神さぶ」は神性を帯びるということで、ここでは年をとることを言っています。当時、女性は三十代で「神さび」てしまうのが常識でした。
「恋をするには年を取りすぎたからと言って拒むのではありません。とはいっても、こうしてお断りした後では、寂しい思いをするのかも知れませんね」。
二十代前半だった家持に対し、女郎は若くとも三十代後半だったはずです。家持にとっては母親の世代に近かったでしょう。
家持は年齢など意に介しない、と次のように返歌します。
百年 に老舌 出でてよよむとも吾は厭はじ恋は増すとも(764)
「たとえ貴方が百歳になって、歯の抜けた隙間からは舌の先が見え、よよむ(腰が曲がる?)ようになったとしても、私は嫌がったりはしません。恋心が募ることはあっても、厭うなど、とんでもない」。
これまた思い切った戯れ歌で、どこまでが本心なのか、彼らの心を探るのは容易ではありません。女郎はまた家持に歌を送ります。
玉の緒を
沫緒 に搓 りて結べらば在りて後にも逢はざらめやも(763)
「互いの玉の緒を沫緒のように緩やかに縒り合わせて結んでおけば、生き長らえて後には、いつかお会い出来ないわけがありましょうか」。
「玉の緒」は宝玉などを貫いた紐のことですが、玉は魂に通じ、ここでは命の暗喩として用いています。「沫緒」は難義語。水の泡のように、ほどけやすく結んだ紐のことでしょうか。
このへんの歌になると、戯れよりも女の本心がつよく出てきているように思えるのですが、どうでしょうか。
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恭仁京は数年で放棄され、都は彷徨の挙げ句、平城という元の鞘に収まりました。奈良への還都ののち、家持と小鹿の歌の贈答はぷっつりと途切れます。彼らの「恋」は、もしかすると、慌ただしい遷都騒動の中での、ひとときの気慰めにすぎなかったのかもしれません。
ともあれ、二人のエスプリのきいた応酬に、私たちは天平の貴人たちの粋な恋を垣間見ることができます。
最後に、「小鹿」という名前の話に戻りましょう。彼女の名をことさら書き記したのは、もちろん家持だったに違いありません。一まわり以上離れた「恋人」のその名――「若く美しい鹿」を意味するその名を、家持は彼女への讃美の想いと、ほんの少しの皮肉をこめて、自ら編集を進めていた歌集にこっそり書き添えたのではないか。私はそんなふうに想像して楽しむのです。
関連ページ:紀小鹿女郎の歌
| 表紙 | 訓読万葉集 歌枕紀行 千人万首 波流能由伎 |