能登

万葉集巻十七の巻末近く、越中国守家持が「春の出挙(すいこ)に依りて諸郡を巡行するに、当時当所にして属目して作」ったという9首が収められています。国府のある射水郡から礪波(となみ)郡―婦負(ねい)郡―新川郡と東行し、再び射水郡に戻って半島の付け根を横断、羽咋(はくい)郡―能登郡―鳳至(ふげし)郡―珠洲(すす)郡と能登を北上したのち、船で射水郡へ戻るという行程になっています。

これらの連作は排列からすると天平20年(748)春の作になりますが、一度の旅行にしてはルートにやや不自然さがあり(半島をジグザグに何度も横断しています)、また左注に見える「当時当所」(その時その場において)という記述から、幾度かの巡行の折々、その都度作られた歌を、あとで一まとめに編集し直したものであると考えるべきでしょう。

越中万葉地図
越中万葉略図

家持はこの9首に、当時越中国に属した8郡すべてを詠み込みました。各郡各所の叙景、また時に応じての感慨が点綴され、読む者は旅情を満喫しつつ越中能登を瞬く間に一巡りすることが出来ます。家持の歌日記が、巧緻な編纂意図に拠って構成されていることを証す一例と言えるでしょう。

このうち後半の5首が旧能登国4郡を詠んだ歌になっています。

気太神宮に赴き参り、海辺を行きし時作る歌一首
 志雄路(しをぢ)からただ越え来れば羽咋(はくひ)の海朝凪したり船梶もがも (巻十七 4025)
(訳)志雄路を通って山を真っ直ぐに越えて来ると、羽咋の海は朝凪している。船と楫が欲しいものだ。

羽咋の海 石川県羽咋市の邑知潟

題詞の「気太神宮」は能登一の宮、気多大社。「志雄路」は富山県氷見市から石川県羽咋郡志雄町へ出る山道で、「羽咋の海」は邑知潟(おうちがた)とも羽咋市沖の海とも言われています。

能登郡にして、香嶋津より船を発して熊来村を射して往く時に作る歌二首
 鳥総(とぶさ)たて船木きるといふ能登の嶋山今日見れば木立繁しも幾代神(かむ)びぞ (巻十七 4026)
(訳)鳥総を立てて船材を伐り出すという能登の島山よ。今日来て見れば、木立がぎっしりと繁っている。幾代を経てかくも神々しくなったことか。

能登島の歌碑 石川県鹿島郡能登島町

題詞の「香嶋津」は詳細不明ですが、七尾湾沿岸の港であることは確かです。「鳥総(とぶさ)」は梢の枝葉の繁った部分を指し、大木を伐った後、切り株の上に山の神を祭るためこれを立てる慣習があったと言います。都には見られない、珍しい風習だったのでしょうか。

家持は能登島を眺めつつ、七尾湾を航行しました。たゆたう浪の上で、遠い都への慕情を募らせたのでしょう、続けて次のような歌を詠みました。

 香嶋より熊来をさして漕ぐ船の楫とる間なく京師(みやこ)しおもほゆ (巻十七 4027)
(訳)いま香嶋から熊来を目指して船を漕ぐ船頭が、休む間もなく楫を繰るように、絶え間なく都が思われることだ。

能登の島
能登島 熊来(石川県鹿島郡中島町)より望む

「楫」は今言う舵でなく、櫂や櫓の総称をこう言いました。「楫とる間」とは、櫂を引いてから次の動作へ移るまでの一瞬の「ため」を言い、極めて短い間の休止を比喩します。

都への恋情が、そこに残してきた妻への恋しさを含んでいることは言うまでもありません。

鳳至(ふげし)郡にして、饒石川(にぎしがは)を渡る時に作る歌一首
 妹に逢はず久しくなりぬ饒石川きよき瀬ごとに水占(みなうら)はへてな (巻十七 4028)
(訳)妻に逢わず久しく時が経った。饒石川の清らかな瀬ごとに水占をしよう。

仁岸川 石川県鳳至郡門前町剣地

「水占」は占いの一種ですが、具体的にどのような方法をとったのか定かでありません。川の浅瀬に縄を張っておき、流れ寄った物やその数などによって吉凶を卜したものかという説があります(伴信友『正卜考』)。何を占ったのかも良く判りませんが、妻の安否か、または妻にいつ逢えるかを知ろうとしたものと思われます。

珠洲(すす)郡より船を発して治郡に還りし時に、長浜の湾に泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌一首
 珠洲の海に朝びらきして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり (巻十七 4029)
(訳)珠洲の海に朝船出をして漕いで来ると、長浜の浦に着いた時には月が照っているのであった。
珠洲の海
珠洲の海 石川県珠洲市飯田町

題詞の「治郡」(類聚古集による)は、おそらく治府(国府)の所在する郡のことで、射水郡を指すのでしょう。能登半島の北端にあたる珠洲郡から船に乗り国府へ還る途中、「長浜の浦」(和名抄には能登郡長浜の地名が載っています。七尾湾内の入江でしょうか。但し松田江の長浜と同一とする説もあります)に停泊した時の作です。能登半島の東海岸沿いは波穏やかな航路ですが、一日がかりの船旅は決して楽なものではなかったでしょう。船を迎える月の光に、家持たちは長旅の疲れをひととき癒されたに違いありません。

こうして家持は諸郡巡行の旅の絵巻を閉じます。

出挙という実務的な所用の旅を借りて、家持はこのように風雅な旅情を詠い上げたのでした。


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