略伝 仁賢天皇11年(498年)、天皇崩後、大臣平群臣真鳥・鮪(しび)父子の横暴に怒った太子(後の武烈天皇)の要請により兵を起こし、真鳥らを攻め滅ぼす。同年末、太子を即位させ、自らは大連となる。武烈天皇8年(506年)、継嗣のない天皇が崩ずると、翌年1月、物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人大臣らを越前三国へ派遣し、応神天皇の五世孫、男大迹王(おおどのみこ)を迎えさせる(古事記には淡海国より迎えたとある)。同年2月、王を河内国葛葉宮で即位させる(継体天皇)が、大和に入るまで20年を要し、この間王位継承を巡って戦乱があったと推測される。継体6年(512年)、百済が任那の4県の割譲を要求し、金村はこれを承認。翌年、この代償として百済は五経博士を貢上する。継体20年(526年)、ようやく大和磐余に都を移す。翌年、筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火を将軍として派遣し、継体23年(528年)、鎮圧する(注)。安閑天皇が即位すると(534年)、引き続き大連となり、皇后・妃のため各地に屯倉を設定する。宣化2年(537年)、新羅が任那に侵攻すると、子の磐・狭手彦らを派遣して任那を救援。しかし欽明天皇1年(540年)、物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退いて住吉の自宅に引き篭る。大伴氏は政治的指導権を物部氏・蘇我氏に奪われ、室屋の時代から続いた最盛期は幕を閉じた。なお江戸時代成立の『摂津名所図会』は住吉に近い大帝塚山古墳(前方後円墳)を金村の墓とするが、考古学的に年代が合わず、無理があるという(小笠原好彦)。奈良県北葛城郡新庄町大屋には金村を祀る金村神社がある。
(注)古事記では麁鹿火と金村の二人を派遣して磐井を討ったとある。また継体紀には、天皇の征討命令に対する麁鹿火の返答に大伴氏の祖先について言及する矛盾があり、本来は金村が将軍の任に当たったのではないかと推測される。紀では金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど、金村に対し批判的な視点が目立つ。