氷高皇女
ひだかのひめみこ
- 生没年 680(天武9)〜748(天平20)
- 系譜など 父は草壁皇子、母は阿閉皇女(元明天皇)。諱は氷高(日高)、または新家内親王とも。漢風諡号は元正天皇、和風諡号は日本根子高瑞日清足姫天皇(やまとねこたかみずひきよたらしひめのすめらみこと)。万葉集には太上天皇(巻八・巻十七)・太上皇(巻十八)・先太上天皇(巻二十)とあり、18/4056題詞脚注には清足姫天皇とある。
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元正天皇行宮跡 岐阜県養老郡 |
- 略伝 714(和銅7)年、食封1000戸を加増される。時に二品。翌年、一品。715(霊亀1)年、母元明天皇より譲位され、幼弱の皇太子首への中継的な天皇として即位(元正天皇)。717(霊亀3)年、美濃国に行幸し、多度山の美泉に因み養老と改元。翌年、藤原不比等らにより『養老律令』が撰修される。720(養老4)年2月、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣。同年5月、舎人親王らが『日本書紀』を撰進。同年8月、不比等が薨去すると舎人親王を知太政官事に任命。翌年、長屋王を右大臣に、藤原房前を内臣に任命する。723(養老7)年、三世一身法を発布。
翌724(神亀1)年、皇太子首に譲位。以後は太上天皇として聖武天皇の後見的な立場にあったが、744(天平16)年2月、聖武天皇の紫香楽行幸に際しては左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を宣伝させた。この頃、難波堀江と諸兄宅で遊宴し、橘讃歌を詠むなど(18/4057・4058)諸兄に対する信頼を表明している。同年11月、紫香楽に行幸。平城還都後の746(天平18)年正月、橘諸兄らが諸王諸臣を率いて太上天皇の御在所(中宮西院)に参入し、雪掃きに供奉。この時諸兄・家持らが詔に応じて歌を詠む(17/3922〜3926)。747(天平19)年5.5、詔で五月五日の節には菖蒲の縵をつけることを求める。
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元正天皇陵(奈保山西陵) |
748(天平20)年4月21日、平城宮寝殿に崩ず。佐保山陵に火葬される。750(天平勝宝2)年、奈保山西陵に改葬。『続日本紀』元明天皇譲位の詔に「生れながらに心が広く、しとやかで美しく、朝廷の人々こぞって推戴し、その徳をたたえた」旨ある。万葉集には5首、08/1637、18/4057・4058、20/4293・4437。他に06/0973・0974・1009は「或云太上天皇御製(歌)」。
関連サイト:元正天皇の歌(やまとうた)
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