天平外交史年表 724(神亀1)〜764(天平宝字8)

724 神亀1 2.4 聖武天皇即位。
8.21 遣新羅使を任命。
725 神亀2 5.22 遣新羅使、帰国。
726 神亀3 5.24 新羅使、来朝入京。
7.13 新羅使の帰国に際し国書を与える。新羅宰相の卒去を弔う。
727 神亀4 9.21 渤海郡王の使、出羽国に来着(初めての渤海使)。大使ら16名は(蝦夷に?)殺害され、8名のみ生存。
12.20 渤海使、入京。
728 神亀5 1.17 渤海使、武芸王の書簡と貢納品を献上する。武芸王は自国を高麗(高句麗)の再興と称し、日本との善隣友好を希望。
2.16 引田虫麻呂、送渤海客使に任命される。
4.16 天皇、渤海使に璽書を賜い、武芸王に友好を約す。
730 天平2 8.29 遣渤海大使引田虫麻呂ら、武芸王の貢納品を伴い帰国。
9.28 諸国の防人を停止する。(注)実際の施行は天平9年9月まで延期か。
10.29 渤海の貢納品を諸国の名神社に奉納する。
731 天平3 この年、日本の兵船300艘が新羅の東辺を襲い、新羅軍に大破される(三国史記)。
732 天平4 1.20 角家主、遣新羅使に任命される。
1.22 新羅使、来朝。
5.11 新羅使40名、入京。珍鳥珍獣などを貢進。
5.21 詔して新羅使の来朝を3年に1度とする。
8.11 遣新羅使角家主、帰国。
8.17 第9次遣唐使任命。同日、節度使を任命し西辺の武備を固める。(注)当時渤海と唐・新羅は対立関係にあり、渤海が日本に接近したことに対し新羅は警戒感を強めていた。おそらく遣新羅使はそうした情報を持ち帰り、同月の節度使任命・海辺強化の策が出されたものと思われる。
8.22 四道の兵士の充足・兵器の修理・軍船の造営を命ずる。
この年、渤海武芸王、水軍を用いて山東半島の登州都督府を攻めさせ、海上交通路を制圧。渤海と唐の関係緊張(旧唐書)。
733 天平5 閏3.25 西海道の兵器新造の料に調布・商布を充てることを命ずる。
4.3 遣唐使船、出航。
この年、唐玄宗、新羅に命じて渤海の南境を攻めさせる。大雪のため失敗(旧唐書)。
734 天平6 11.20 遣唐大使多治比広成、種子島に帰着。
12.6 新羅使、筑紫に来泊。
735 天平7 2.17 新羅使入京。朝廷は多治比県守を兵部曹司に派遣して入朝理由を問わせる。新羅が無断で「王城国」と国号改変したことにより、拝朝を許さず本国に返却する。
4.26 入唐留学生下道真備、大量の唐の文物を献上。
この年、新羅と唐が関係修復、戦争状態を完全に終結させる。
736 天平8 2.28 阿倍継麻呂を遣新羅大使に任命。
この年夏から冬にかけ、大宰府を始め各地で疫病が大流行。
この年、新羅は平壌等二州を制圧、北辺支配体制を固める。
この年、新羅より学生審祥来日。本邦華厳宗の初祖。(注)華厳宗は唐でなく新羅から初伝したらしい。統一新羅においては華厳宗が護国仏教として盛んであり、奈良時代の仏教はその影響下にあった。
737 天平9 1.26 遣新羅使、帰国入京。
2.15 遣新羅使、新羅の「常礼を欠く」ことを朝廷に奏上。
2.22 朝廷、遣新羅使の報告を受け、新羅につき官人の意見を聞く。使いを派遣して問責する・兵を発して征伐するなどの意見が出る。
3.28 遣新羅副使大伴三中ら、拝朝。
4月 伊勢神宮ほか諸社に奉幣、諸神に新羅の無礼を報告する。
夏以降、再び疫病が大流行、死者甚大。
9.21 筑紫の防人を停止し、東国に帰郷させる。筑紫の人民を徴発して壱岐・対馬の防備に当たらせる。(注)防人停止は、疫病と飢饉に疲弊した農民に対する救済策の一環か。
738 天平10 1.13 阿倍内親王、立太子。
1月 新羅使来朝。
5.3 諸国の健児を停止(北陸・南海道を除く)。
6.24 新羅使の入京を許さず、大宰府より放還。
この年、渤海の大武芸王が死去し、大欽茂が即位。大欽茂は直ちに唐に遣使、史書等の写しを持ち帰らせるなど、唐との緊張緩和路線をとる。
739 天平11 5月 三関国・大宰府管内諸国などを除き、諸国兵士を暫く停止する(類聚三代格)。
7.13 渤海使来着。
11.3 入唐使判官平群広成、渤海使(第2回)と共に帰国して拝朝。
12.10 渤海使拝朝。大欽茂の国書と虎皮などを進上。(注)この時、渤海と唐の関係改善の情報が朝廷に伝わるか。
740 天平12 1.1 大極殿での朝賀に渤海郡使・新羅学語が参列。
1.13 大伴犬養を遣渤海大使に任命。
1.30 渤海使、本国の楽を奏す。天皇、中宮院の閤門に御す。
3.15 紀比登を遣新羅大使に任命。
8.29 大宰少弐藤原広嗣、上表文にて時政を批判(藤原広嗣の乱)。
10.5 遣渤海郡使大伴犬養ら来帰。(注)渤海大欽茂王の親唐路線を確認か。以後天平宝字2年まで18年間遣渤海使の記録なし。
10.15 遣新羅使紀比登ら還帰、入京。(注)使の成果につき続紀に記事なし。
10.19 造伊勢国行宮司を任命(関東行幸の準備)。
12.15 恭仁京遷都
741 天平13 この年、突厥帝国崩壊。渤海はこれに乗じて北進、北満州の靺鞨を征服し統治下に入れる。
742 天平14 1.5 大宰府廃止。廃府の官物は筑前国司に給付。(注)広嗣の乱の影響か。3年後の天平17年6月再置。
2.3 新羅使来朝。新京未完成の理由で入京を許さず、筑紫より放還
10 遣新羅使、新羅に至るが受け入れを拒否される(三国史記)。(注)続紀には遣新羅使任命などの記事は見えない。以後752(天平勝宝4)年まで10年間遣使なし。
743 天平15 2.10 佐渡国を越後国に併合(天平勝宝4年11月復置)。
3.6 新羅使来朝。調を土毛(くにつもの)と改称したことを咎め、放還。(注)以後、天平勝宝4年まで10年間新羅使来朝は途絶、日新は国交断絶状態
12.26 筑紫に鎮西府を置く。(注)西海道で軍団を統括する機関として、廃止された大宰府に代り設置。天平17年6月大宰府復置により廃止か。
744 天平16 2.26 橘諸兄、難波宮を皇都とする勅を伝える。
745 天平17 1.1 紫香楽に遷都。
5.11 平城京に還都
6.5 大宰府を再置。
746 天平18 1.7 大唐使を召す(正倉院文書)。石上乙麻呂、遣唐大使に任命される(懐風藻)。計画はその後中止。
4.5 鎮撫使を再置。(注)鎮撫使任命は新羅に対する備えか。筑紫防人停止・諸国兵士停止といった軍備縮小政策からの転換。
12.10 鎮撫使停止。全国的に兵士制復活。
この年、渤海人と鉄利(黒竜江省南部のツングース系部族、渤海に服属)来朝。出羽国に安置し、衣糧を給い放還する。
749 勝宝1 4.4 日本聘使(遣唐使の大使?)、進発。(注)『袋草紙』所引の「遣唐使大伴宿禰佐手丸記」による。大仏建立を報告し記念の贈物を届ける使者か。
7.2 孝謙天皇即位。
8.10 紫微中台の官人を任命。大納言仲麻呂、兼紫微令。
750 勝宝2 9.24 第11次遣唐使任命。大使藤原清河、副使大伴古麻呂。(注)渡唐は翌々年。一説に鑑真招致のための遣使。
751 勝宝3 11.7 吉備真備、入唐副使に任命される。
752 勝宝4 1.25 山口人麻呂を遣新羅大使に任命。(注)遣新羅使は天平12年以来12年ぶり。大仏造営を報告し、王の来朝と金の輸入を請うか。
閏3.22 新羅王子ら700余名の新羅使が筑紫に来着。(注)天平14年以来10年ぶり。香料・薬物・金属・調度など大量の物品を携えての来日。大仏の塗金を意識して大量の金も持ち込むか。但し朝廷は6月に至るまで一行を大宰府に留め置き、開眼会への参列は許さなかった。おそらく日本は新羅王の来日を要求し、これが拒否されたための処置と思われる。
4月 藤原清河・大伴古麻呂らの遣唐使が出航。
4.9 東大寺大仏開眼供養会。
6.14 新羅王子ら拝朝、貢調。
6.17 新羅使を朝堂で饗応。新羅景徳王を誉める詔。以後国王の来朝を求め、不可能な場合は表文をもたらすよう要請する。(注)あくまで新羅を朝貢国扱いする。
6.22 新羅王子ら、大安寺・東大寺で礼仏。
9.24 渤海使、越後国佐渡島に来着(13年ぶりの渤海使)
10.5 百済王敬福を検習西海道兵使に任命。
11.3 佐渡国復置。
753 勝宝5 1.1 唐の朝賀で大伴古麻呂、新羅と席次を争い意を通す(帰国後報告)。
2.9 小野田守を遣新羅大使に任命。
5.25 渤海使、拝朝。貢納品を献上。
6.8 渤海使、帰国。天皇は璽書を賜い、渤海王が臣と称さず、上表のないことを責める。
8月 遣新羅使、新羅に至る。「慢而無礼、王(景徳王)これに見えず、乃ち廻す」(三国史記)。(注)続紀宝字4年9月条には「彼国闕礼」とあり、使命を果たさず帰国した旨見える。前年の新羅使への書で王の来朝を促したことが反発を呼んだものか。これにより官人の間に新羅征討の意見が台頭する(経国集巻二十)。
10.21 兵士を雑役に差科することを禁断、また軍事教練の強化を命ずる官符が出される(類聚三代格)。(注)新羅・渤海との関係悪化による。
12.7 真備等の遣唐使船、唐より帰国途上、屋久島に漂着(翌月京に報告)。
この年、清河ら遣唐使、阿倍仲麻呂と共に日本へ向け出航するが、暴風に遭って安南に漂着。
755 勝宝7 3月 兵部少輔大伴家持ら、難波で防人を閲兵。(注)防人制がいつ復活したか不明。
11.9 唐で安禄山の乱が勃発。(注)朝廷がこの情報を得るのは3年後の遣新羅使帰国の際。
756 勝宝8 5.2 聖武太上天皇、崩ず(56歳)。
6.22 筑前国に怡土(いと)城を築く。大宰大弐吉備真備、専当。(注)新羅に対する警戒。
757 宝字1 7.2 橘奈良麻呂の乱
758 宝字2 8.1 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
9.18 遣渤海使小野田守、帰国。渤海大使ら23名を伴う。越前国に安置。
12.10 小野田守、渤海で得た安史の乱(3年前の11月勃発)などの情報を奏上。また唐王の渤海あて勅書を進上。(注)安禄山は前年すでに暗殺されているが、小野田守らはその情報をまだ把握できなかった。この年4月唐玄宗より渤海に援軍を請う使が出され、渤海は真偽を見極めるため唐に使者を派遣、未だ情勢を見守っている旨を報告。
同日、大宰府(帥船王・大弐真備)に安禄山の動向への対応策を命ずる。万一安禄山の軍が攻めて来た時のために「奇謀」を設けよ。
759 宝字3 1.3 渤海使朝貢。天皇よりその勤誠を褒める詔。渤海との国交正常化なる
1.27 恵美押勝、渤海使を田村第に宴す。当代の文士、詩を賦して送別し、渤海副使これに和す(楊泰師の七言詩『経国集』巻十三)。
1.30 高元度(高句麗系の渡来氏族)、迎入唐大使使(第13次遣唐使)に任命される。(注)藤原清河を迎えるための遣使。渤海を経由して唐へ向かうが、安史の乱の影響で所期の目的を果たさず帰国。
2.16 渤海使、藤原清河を迎える使者高元度らを伴い帰国。
8.6 大宰帥船親王を香椎廟(仲哀・神功皇后を祀る)に派遣、新羅征討を報告させる
9.19 新羅征討のため、3年以内に500隻の造船を命ずる。
760 宝字4 9.16 新羅使来日(8年ぶり)。「御調」と学語(日本語を学習する留学生)2名の貢進を願い出るが、日本側は先年の非礼と使人の軽微を理由に接待を拒否。来朝の4条件を示し、陸奥より放還。
761 宝字5 1.9 美濃・武蔵の二国の少年20人に新羅語を習わせる(新羅征討のため)。
762 宝字6 10.1 遣渤海使、渤海国使を伴い帰国。(注)この年、渤海王は唐よりそれまでの郡王にかえて国王の称号を与えられ、また新羅王と同等の検校太尉の官職を授けられる。これにより渤海は新羅征討の意思を失ったか。この時来日した渤海使王新福により征討計画中止の申し入れがなされたと推測される(石井正敏)。しかし続紀にはこの後も新羅征討の準備を進める記事あり。
11.1 送渤海使使を任命。
11.16 香椎廟に奉幣、新羅征討の軍旅を整備。(注)以後新羅征討計画に進展見えず。国内情勢の変化(上皇・天皇の反目、道鏡らの台頭、旱害など)、同盟国渤海側の事情の変化により中止か。
763 宝字7 1.3 渤海国使、朝貢。
1月 安史の乱ほぼ終結。乱により大唐帝国は衰微に向かい、周辺諸国が自立へ向かう転機となる。
2.4 新羅使、朝貢のため来日。左小弁大原今城ら派遣され、前約に反することを通告。但し入京を許し常の待遇とする。
8.18 旱害により山陽道・南海道の節度使を停止。(注)新羅征討計画は頓挫。
764 宝字8 7.19 新羅使、大宰府に到着。右少弁紀牛養らを派遣して来朝理由を訊問。新羅使は僧戒融(前年10月渤海より帰国)の消息を唐の勅使に伝えるためと答える。牛養らは新羅が兵を集め日本の攻撃に備えているとの噂の真偽を尋ねる。新羅使は海賊に対する備えであると返答。
9.11 恵美押勝の乱
9.20 道鏡を大臣禅師に任ずる。
10.9 淳仁天皇廃帝・配流。称徳天皇即位。

主に『続日本紀』(岩波新日本古典大系)を参照して作成しました。

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