『拾遺愚草全釈』参考資料集 狭衣物語・その他物語・日記・日本漢詩など

狭衣物語

平安中期の作り物語。作者はかつて紫式部の娘、大弐三位とする説があったが、現在では六条斎院宣旨(禖子内親王家宣旨)とする説が有力である。成立は不詳であるが、康平(一〇五八~一〇六五)の頃とする説、また延久(一〇六九~一〇七四)・承保(一〇七四~一〇七七)の頃とする説等がある。源氏物語に次ぐ物語として愛読され、特に新古今集以後の和歌に与えた影響は小さくない。本文は主として新編日本古典文学全集による。

巻一

●狭衣物語・巻一

「花こそ花の」と、とりわきて山吹を取らせたまへる御手つきなどの、世に知らずうつくしきを、人目も知らず、我が身に引き添へまほしく(おぼ)さるるぞ、いみじきや。〔狭衣〕「くちなしにしも咲きそめけん契りぞ口惜しき。心の(うち)、いかが苦しからむ」とのたまへば、中納言の君、「さるは言の葉も繁く侍るものを」と言ふ。

と思ひ続けられたまへど、げにぞ知る人なかりける。

【通釈】どうすればよいのか。「くちなし」という、口をきかぬ色の花なので、心の中を知ってくれる人は誰もいない。

【付記】狭衣物語巻頭、晩春三月、狭衣が従妹の源氏の君のもとを訪ね、山吹の花を手に取った源氏の君を見て心中歌を詠ずる場面。

【関連歌】上0061、上1413

 

●狭衣物語・巻一

この水影は見で止まんも口惜しう思されて、

【通釈】飛鳥井の水に宿る影ではないが、あなたのお姿を見たいとあなたの家に泊って、(まぐさ)に隠れるようにこっそり寝たら、人が咎めるでしょうか。

【付記】狭衣が誘拐された飛鳥井の女君を救って家に送り、その可憐さに惹かれて泊めてほしい旨言い遣ると、女君は催馬楽の「飛鳥井」に言寄せて拒絶した。それに対し、狭衣が返事をした場面である。

【関連歌】上0278

 

●狭衣物語・巻一

「遅し、遅し」と言へば、我にもあらずいざり出づるに、何と思ひ分くことはなけれど、心騒ぎして、胸ふとつぶれたる心地、(とり)も今ぞ鳴くなる。

と言ふままに、涙のみこぼれて、とみにも乗りやらず。涙堰きやらぬけしきを、まいて、いかに、いかにと思ひやらる。

【通釈】明け方、ためらいながらこの家を出て行ったと、木綿付鳥(鶏の異称)よ、あの人が問うたら、答えておくれ。

【付記】狭衣の乳母子の道成と乳母の画策により、筑紫へ連れ去られてゆく飛鳥井の女君が旅立ちを急かされる場面。このあと狭衣は女君の失踪を知り、毎夜その面影を慕い続ける。

【関連歌】上0876、上1168、中1955

 

●狭衣物語・巻一

つくづくと沖の(かた)を見やれば、空はつゆの浮雲もなく、月さやかに澄みわたりたるに、海の(おもて)も、()(かた)行く末見えず、はるばると見わたされて、寄せ返る波ばかり見えわたりつつ、船のはるかに()ぎ行くが、いと心細き声にて、「虫明(むしあけ)瀬戸(せと)()よ」と歌ふが、いとあはれなれば。

【通釈】流れさすらってでも、いつかお逢いする機会があるかと、海に身を投げて、この虫明の瀬戸で待っていてみましょう。

【付記】狭衣物語巻一、巻末近く、乳母と共に船で筑紫へ向かう途上、入水自殺を決意した飛鳥井女君が虫明の瀬戸の海を眺める場面。

【関連歌】上0491、上1169、中1765

 

巻二

●狭衣物語・巻二

さても、かの安積(あさか)の沼の水絶えなんことをしのびあへざりしあはれは、さらに忘れたまはず、思ひよそふべくもあらぬ人の御ありさまなどにつけても、また少し下れる(きは)を見つくしたまふたびごとに、まづ(おぼ)()でぬ折なし。

道季(みちすゑ)が思ひよりしことの(のち)、いとど底の藻屑までもたづねまほしき御心絶えざるべし。

思ひ出づるは、なかなかにこよなくめざましかりける道芝の露の名残(なごり)なりけんかし。

【通釈】思い遣る心は、ますます途方に暮れている。あの人の行方は海か山か、それさえ知らない別離では。

【付記】相変わらず飛鳥井の女君が忘れられない狭衣は、乳母子の道季から海に身を投じた女性のあったことを聞き、女君ではないかと案ずる。海底の藻屑までも尋ねたいと心は乱れるのだった。狭衣の歌は「思い遣る心は、ますます途方に暮れている。あの人の行方は海か山か、それさえ知らない別離では」程の意。なお結句「知らぬ別れに」とする本もある。

【関連歌】上1169、員外3188

 

●狭衣物語・巻二

冬の初めにもなりぬれば、確かなることは知らねど、ありし懐紙(ふところがみ)のしるし思し出でて、乳母(めのと)たちにも言ひ知らせたまひければ、なにやかやと心知るどちはやすきそらなく胸を(こが)しつつ、疎き人々をばいづれの御方にも近く寄せず、ただこのこと助けたまへと神仏を念じたてまつる。

姫宮は、おほかたの御心地はなかなかこのごろとなりては苦しくもおぼえさせたまはねど、御身のありしにもあらずならせたまふままには、恥づかしう、いみじからんほどのありさまを、つひにいかにならんと(おぼ)すに、いといみじう悲しきに、人々やすげなく言ひかまふるありさま、心づくしに思ひあつかふを、いかなることありて、あぢきなき御心がまへのあさましさなど言ひ伝へ、上聞かせたまはんなど人知れず思さる。ただかくながら、いまの()にも消えいりなばやと思すけにや、常よりもいと苦しくて暮れゆくを、羊のあゆみの心地して、さすがにもの心細く思さるるに、()(した)はらふ風の身にしむやうなるを、御(ぐし)もたげて見いだしたまへれば、色々散りかひて木末(こずゑ)あらはになりにけり。

  末はらふ四方(よも)木枯(こがらし)心あらば憂き名を隠す(くま)もあらせよ

【通釈】梢を払う四方の木枯しよ、心があるならば、私の辛い浮名を隠すほどの物陰くらいは残しておくれ。

【付記】狭衣に犯された女二の宮の妊娠を、母宮の懐妊に偽装するという画策がはかられる。ある夕、女二の宮は帝に知られることを恐れ、いっそ死にたいと悩み、日の暮れるのも羊の歩みのように感じる。 【関連歌】上0769

 

●狭衣物語・巻二

九月の晦日(つごもり)にもなりぬれば、ただ今日明日ばかりにこそはと思すに、大将いとどふかくしも身にしみまさりてながめ臥したまへるに、宮の(きん)()のほのかに聞こゆれば、いとしづめがたうて、笛をおなじ声に吹きあはせつつ参りたまへれば、おほかたはいともの騷がしけれど、この御方はのどのどとして、なべてならぬ人々五、六人ばかり、御前近くて廂の御座(おまし)にぞおはしましける。若き人々、(わらは)などは、池の船に乗りて漕ぎかへりて遊ぶを御覧ずるなりけり。

我も高欄に寄りかかりて、笛を吹きつつそそのかし聞こゆれど、同じさまに慣らひしかど、ことのほかになかなか耳慣らさじとにや弾きすさみて、「さらば、同じうは」とて大納言の君(引用者注:源氏の宮の乳母)してさしやらせたまへば、常よりも心やすくひき寄せたまふままに、

と言はるるを、人もこそ咎むれ。むげにうつし心もなくなりぬるにやとあさましければ、言ひ紛らはして、琴を手まさぐりにしたまひつつ、空をつくづくとながめたまへるに、霧ふたがりて月もさやかならぬに、いとどものあはれにて、天降りたまへりし御子の御ありさま思ひ出でられたまふ。

【通釈】口に出さずに忍んでおりますのに、声に出せとおっしゃるのですか。今宵、それでは秋の調べを空の果てまで響かせましょう。

【付記】入内を控える源氏の宮に未練を残す狭衣大将は、源氏の宮の弾く琴の音を聞きつけ、参上した。弾きさした琴を渡され、忍ぶ思いを歌に詠むのだった。

【関連歌】中1974

 

●狭衣物語・巻二

霜月の十日なれば、紅葉も散りはてて野山も見どころなく、雪霰がちにてもの心細く、いとど思ふこと積りぬべし。吉野川のわたり、舟をいとをかしきさまにてあまたさぶらはせたれば、乗りたまひて流れゆくに、岩波高く寄せかくれど、水際(みぎは)いたく凍りて、浅瀬は舟も行きやらず、棹さしわたるを見たまひて、

思しよそふる事やあらん。妹瀬山のわたりは見やらるるに、なほ過ぎがたきに御心を汲むにや、舟いでえ漕ぎやらず。

上はつれなく」など口ずさみつつ…

【通釈】「吉野川…」吉野川の浅瀬の白波を辿りあぐねるように、あの人との恋道に惑って、夫婦仲になることができずに終わった。

「わきかへり…」湧き返り、氷の下で咽びながら、いかにも旅人を歎かせる吉野川であるよ。

【語釈】◇浅瀬白波たどりわび 古今集の友則の歌「天の川浅瀬白波たどりつつ渡りはてねば明けぞしにける」による。◇上はつれなく 後撰集の読人不知の歌「白露のうへはつれなくおきゐつつ萩の下葉の色をこそ見れ」など古歌に幾つか例がある。

【付記】源氏の宮は賀茂斎院に渡御してしまい、屈託を晴らそうと狭衣大将は高野・粉河詣でを思い立つ。その途中、吉野川の急流を舟で渡ろうとするが、汀が凍って舟は進まない。それにつけても源氏の宮を思い、狭衣大将は歌を詠む。

【関連歌】下2485

 

巻三

●狭衣物語・巻三

細やかなる端つ方に、〔狭衣〕「この頃は、聞きたまふことも侍らんものを、などか。

この御返り、つゆも見せたまはずは、苦しと思さずとも、いまは対面せじ。ただこればかりなん、心ざし見るべき」などのたまふを、〔典侍〕「いとわびしきわざかな。さは、これや限りに侍らん」と、わぶわぶ車に乗りぬ。

【通釈】折れ返り、起き臥しするのも難しい下荻の葉末を吹き越す風のように、気落ちしている私を慰めに訪れて下さい。

【付記】濡衣を着せられて一品の宮と結婚する羽目に陥った狭衣は、思い悩む自身を「折れ返り起き臥しわぶる下荻」に擬え、女二の宮の慰問を「末こす風」に譬えて懇望する歌を書き、必ず返事をくれるようにと中納言典侍に託した。

【関連歌】上0939、上1432

 

●狭衣物語・巻三

宮つくづくと思し出づること多かる中に、この「末越す風」(引用者注:狭衣の歌「折れ返り起き臥しわぶる下荻の末越す風を人の問へかし」のこと)のけしきは、過ぎにしその頃もかやうにやと、少し御目留まらぬにしもあらで、筆のついでのすさみに、この御文の片端に、

「起き臥しわぶる」などあるかたはらに、

など、同じ上に書きけがさせたまひて、細やかに()りて、典侍(すけ)の参りたるに、「捨てよ」とて賜はせたるを、隠れに持てゆきて見れば、物書かせたまひたりけると見るに、うしろめたきやうにはありとも、いとほしくのたまひつるに、これを面隠しにせんと思ひとりて、〔典侍文〕「かかる物をなん、思ひがけぬ所にて見つけて侍りつるを、参らするはおぼろけのには侍らず。いまは思しめし慰めよ」など聞こえたり。

【通釈】あなたとの仲を夢かと思ったあの頃によく似ている、あなたの一品の宮に対する態度ですこと。あんなに辛い思いは、ほかに例はないと思っていましたのに。

下荻の露のように消え入りそうに嘆いていた当時の夜な夜なも、私はあなたがきっと来られると期待できたでしょうか。

【付記】女二の宮の慰問を懇望する歌を贈った狭衣であったが、女二の宮は以前の狭衣の冷淡な態度を恨むばかりで、狭衣の期待には応えてくれない。

【関連歌】上0939

 

●狭衣物語・巻三

悩ましきにことつけて、夜深く出でたまふ。一条の宮におはしぬ。まだ夜深くて、起きたる人なければ、手づから格子一間上げたまひて、やがて眺め臥したまへるに、「雁のあまた連ねて鳴き渡るを」と、独りごちたまひて、「青苔の色の紙」と誦じたまふ御けはひ、帝の御妹と言ふとも、世の常ならんはことわりなる御ありさまなり。

と、独りごちたまふも、聞く人なかりけるぞかひなかりける。

【通釈】女二の宮にお聞かせしたいものだ。故郷の常世の国を離れた雁が、思いも寄らない恋しさに泣く声を。私も思いのほかの成り行きで結婚することになり、あなたを恋しく思って泣いています。

【付記】余儀なく一品の宮と結婚した狭衣は、深夜、妻のもとを去る。程近い一条の宮に聞こえて来る彼女の詩吟の声にも興の覚める思いがし、狭衣は女二の宮を思って独り歌を詠むのだった。

【関連歌】下2677

 

●狭衣物語・巻三

更けゆくままに、雪折々うち散りて、木枯しあらあらしう吹きしきたるに、庭火のいたくまよひて、吹きかけらるるを、払ひわびつつ、けぶりの中より(みが)み出でたる主殿寮(とのもりづかさ)どもの顔、いとをかしう見やられ給ふにも、大将殿の御心には、

など思ひつづけられ給ふにも、けふあすと思ひ立ちたる心の中は、いとどあるまじき事と思ひはなたれ給へど、それにつけてしもぞ、なほ安からずおぼえ給ふ。

【通釈】通り一遍に消そうとしても消えるような思いだろうか。煙の下でいぶされて困りきるように、ずっと鬱々と源氏の宮への恋に悩み続けてきたとしても。

【付記】出家を決意した狭衣は、折から賀茂神社の相嘗祭(あいんべ)の見物を楽しんだが、心中は源氏の君への思慕やまず、恋に思い悩む歌を独り詠ずる。

【関連歌】上0851

 

巻四

●狭衣物語・巻四

御文はわざとの使奉りたまはんもきしろひ顔なりつれば、ただ宰相中将のもとにひまなく責めおこせつつ、その中にぞ入れたまひける。東宮より御使参りぬと見置きたまひて出でたまふままに、例の細やかにうらみ続けたまひつる中に、

さりとも類あらじとこそ思ひたまへらるるを、今日ばかりはなほとり(たが)へても賜はせよかし」とある御書きざまはしも、げに類なげなるを、聞こえかはしたまふらんも似げなかるまじけれど、さし離れがたき御返りを参らせ勧めつつ書かせ奉りたまふに、「またいかがは、さまざま聞こえたまはん」とて例の、上ぞ書きたまふ。

とぞありける。

【通釈】「くらべ見よ…」浅間の山の盛んな噴煙にも比べて見て下さい。誰の思いが熱さでまさるかと。

「あさましや…」呆れたことです。浅間の山の噴煙に並ぶような思いとも見えません。

【付記】故式部卿の未亡人である北の方(宰相中将の母)と、その娘である姫君と、母子両方に心を惹かれていた狭衣は、東宮が姫君と盛んに文通していることを知り、姫君への思いを募らせる。かねて妹を娶るよう狭衣に勧めていた兄の宰相中将をしきりと恨む手紙の中に、姫君にあてた手紙を混ぜて贈るが、直接返事は得られないのだった。

【関連歌】中1565

 

その他物語・日記・随筆など

土左日記

本文は主として岩波日本古典文学大系による。

●土左日記(冒頭)

をとこもすなる日記(にき)といふものを、をむなもしてみむとてするなり。某年(それのとし)十二月(しはす)二十日(はつか)(あまり)一日(ひとひ)(いぬ)のときに、門出す。その(よし)、いささかにものに書きつく。

ある人、(あがた)四年(よとせ)五年(いつとせ)はてて、例の事どもみなしをへて、解由(げゆ)などとりて、すむ(たち)より出でて、船にのるべきところへ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年来(としごろ)よくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつ、(ののし)るうちに夜ふけぬ。

【付記】承平四年(九四三)十二月、土左国守の任期が満ちた紀貫之は、国府の官舎を後にした。

【関連歌】上0726

 

紫式部日記

紫式部が一条天皇中宮彰子に仕えた寛弘五年(一〇〇八)秋から同七年正月まで、約一年半の記録。本文は岩波文庫による。

●紫式部日記一四


しはすの廿九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし。いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひいづれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。夜いたうふけにけり。御物忌におはしましければ、御前にもまゐらず、心ぼそくてうちふしたるに、前なる人々の、「うちわたりはなほいとけはひことなり。里にては、いまは寝なましものを。さもいざとき履のしげさかな」と、いろめかしくいひゐたるを聞く。

としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな

【語釈】◇世ふけゆく 「年を取ってゆく」「夜が更けてゆく」の掛詞。

【付記】師走も押し詰まった晩、宮中の局に臥して詠んだ歌。玉葉集に採られている。

【関連歌】下2337、下2364

 

栄花物語

栄華物語とも書く。別名、世継物語。宇多・醍醐朝から堀河朝まで、平安朝二百年の歴史物語。前編の作者は赤染衛門が有力視されている。本文は主として岩波日本古典文学大系による。

●栄花物語巻第五 浦々の別

春宮よりいかなる御消息か有けん、淑景舎より聞えさせ給、

  秋霧の絶間絶間を見渡せば旅にただよふ人ぞ悲しき

はるかなる御有様を覚しやらせ給て、中宮、

  雲の波(けぶり)の浪をたちへだてあひ見むことの遥かなるかな

とひとりして覚されけり。

【付記】伊周が流罪地の大宰府に向かっていた頃、淑景舎(道隆次女、原子)と中宮定子の間で交わされた贈答。定子の歌は結句を「かたくもあるかな」として続古今集に採られている。

【関連歌】上1012

 

●栄花物語巻第三十八 松のしづえ

天降る神の(しるし)に君に皆よはひは譲れ住吉の松

【付記】延久五年(一〇七三)二月、後三条上皇は住吉・天王寺を御幸し、帰途の船中で多くの和歌が詠まれた。そのうちの一首で一品宮女房の作。

【関連歌】上1073

 

枕草子

本文は主として岩波新日本古典大系による。

●枕草子 一段

秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、とびいそぐさへあはれなり。

【関連歌】中1521、員外3223

 

●枕草子 二段

四月。祭の比いとをかし。上達部(かんだちめ)殿上人も、(うへのきぬ)のこきうすきばかりのけぢめにて、白襲(しらがさね)どもおなじさまにすずしげにをかし。木々の木の葉まだいとしげうはあらで、わかやかにあをみわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空の気色の、何となくすずろにをかしきに、すこしくもりたる夕つかた、夜など、忍たる郭公(ほととぎす)の、遠くそらねかとおぼゆるばかり、たどたどしきを聞つけたらんは、何心ちかせん。

【付記】「(ころ)は」の章段の四月、すなわち初夏。清少納言は二月・六月・十月以外のすべての月を「をかし」と賞賛している。

【関連歌】上0123

 

●枕草子 三十四段

四月のつごもり五月のついたちの(ころ)ほひ、橘の葉のこく青きに、花のいとしろう咲きたるが、雨うちふりたるつとめてなどは、よになう心あるさまにをかし。花のなかより、こがねの玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたる、あさぼらけの桜におとらず。郭公(ほととぎす)のよすがとさへ思へばにや、猶さらにいふべうもあらず。

【関連歌】上0928

 

●枕草子 三十八段

水鳥、鴛鴦(をし)いと(あはれ)なり。かたみにゐかはりて、羽の上の霜はらふらん程など。

【参考】「羽の上の霜うちはらふ人もなし鴛鴦のひとり寝今朝ぞかなしき」(古今和歌六帖、作者未詳 移動

【関連歌】上0464、上0964

 

●枕草子 百二十四段

九月ばかり、夜ひと夜ふりあかしつる雨の、けさはやみて、朝日いとけざやかにさし(いで)たるに、前栽(せんざい)の露は、こぼるばかりぬれかかりたるも、いとをかし。透垣(すいがい)羅紋(らんもん)、軒のうへなどは、かいたる蜘蛛の巣の、こぼれのこりたるに、雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじう(あはれ)にをかしけれ。

【付記】晩秋の露の風情。

【関連歌】上0773

 

大鏡

白河院政期(1096~1129)に成立したとされる、道長の栄華を中心とした平安王朝歴史物語。世継物語、世継の翁が物語とも。作者未詳。本文は小学館日本古典文学全集による。

●大鏡 第二巻 左大臣時平

かたがたにいとかなしく思し召して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、

また、亭子(ていじ)の帝に聞こえさせたまふ、

【付記】大宰権帥に左遷され、筑紫の配所へ旅立つ道真が歌を詠む場面。

【関連歌】下2676

 

●大鏡 第二巻 左大臣時平

かくて筑紫におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕、をちかたに所々煙立つを御覧じて、

【付記】大宰権帥として筑紫の配所に着いた道真が歌を詠む場面。

【関連歌】下2603

 

●大鏡 第五巻 太政大臣道長

「第一相には、とらの子のふかき山のみねをわたるがごとくなるを申たるに、いささかもたがはせたまはねば、かく申はべるなり。このたとひは、とらの子のけはしき山のみねをわたるがとごしと申なり。御かたち・ようていは、ただ毘沙門のいき本みたてまつらんやうにおはします。御相かくのごとしといへば、たれよりもすぐれたまへり」

【付記】東三条院藤原詮子(円融天皇女御)の加持祈祷をするために呼ばれた飯室(いいむろ)の権僧正の伴僧に観相をする者がいるというので、女官たちが人相を見てもらった。一人の女官が内大臣道隆の相を尋ねると、僧は道隆の人相を讃めたが、道長の相こそが最上であると言って、その理由を説明した。

【関連歌】上0770

 

更級日記

菅原孝標女の日記。作者十三歳の寛仁四年(一〇二〇)から、康平二年(一〇五九)までの約四十年間の回想。本文は岩波文庫による。

●更級日記

美濃の国なる境に、墨俣(すのまた)といふ渡りして、野上(のがみ)といふ所につきぬ。そこに遊女(あそび)ども出で来て、夜ひと夜、歌うたふにも、足柄なりし思ひ出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし。

【付記】父の任国上総から京へ向かう途中、美濃の国の野上(今の不破郡関ケ原町)に着いた時の回想。「足柄なりし…」とは、これ以前に作者が足柄山で三人の遊女に会い、その哀れ深い有様と歌に心を動かされたことを言う。この一節により野上は遊女の里として有名になった。

【関連歌】上0897

 

今昔物語集

今昔物語と略される。12世紀前半の成立とされるが編者は未詳。天竺五巻、震旦(中国)五巻、本朝二十一巻より成り、計一千余の説話を集める、我が国最大の古代説話集。本文は京都大学附属図書館蔵本(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/konjaku/kj_top.html)を底本とし、幾つかの活字刊行本を参考に作成した。

●今昔物語集 第十巻第四話

漢武帝、以張騫令見天河水上語第

今昔、震旦の漢の武帝の代に、張騫と云ふ人有けり。天皇、其の人を召て、「天河の水上尋て参れ」と仰せ給て遣しければ、張騫、宣旨を奉はりて、浮木に乗て河の水上を尋ね行ければ、遥に行き行て一の所に至れり。其の所、見も不知ぬ。其に、常に見る人には不似ぬ様したる者の、機を数立て布を織る、亦、不知ぬ翁有て牛を牽へて立てり。

張騫、「此は何なる所ぞ」と問ければ、「此は天河と云ふ所也」と答ふ。張騫、亦、「此の人は何なる人々ぞ」と問ければ、「我等は、此れ、織女・牽星となむ云ふ。亦、其は何なる人ぞ」と問ければ、張騫、「我れをば張騫となむ云ふ。天皇の仰せに依て、『天河の水上を尋て参れ』と仰せを蒙て来れる也」と答ふれば、此の人々、「此こそは天河の水上なれ。今は返りね」と云たるを聞て、張騫返にけり。

然て、天皇に奏して云く、「天河の水上を尋て罷て侍りつ。一の所に至たれば、織女は機を立て布を織り、牽星は牛を牽て、『此なむ天河の水上』と申つれば、其より罷り返たる也。所の様、常にも不似ざりつ」と。

然て、張騫未だ返り不参ざりける時に、天文の者、七月七日に参て、天皇に奏しける様、「今日、天河の辺に不知ぬ星出来たり」と。天皇、此れを聞給て、怪び思ひ給けるに、此の張騫が返り来て申ける言を聞給てぞ、「天文の者の『不知ぬ星出来たり』と申しゝは、張騫が行たりけるが見えける也けり。実に尋て行たりけるにこそ」と信じ思給ける。然れば、天河は天に有れども、天に不昇ぬ人も此なむ見えける。此れを思ふに、彼の張騫も糸只者には非けるにやとぞ、世の人疑けるとなむ語り伝へたるとや。

【関連歌】上0396

 

高倉院升遐記

高倉院昇霞記とも。源通親(一一四九~一二〇二)による高倉院(一一六一~一一八一)追悼の記。本文は岩波新日本古典文学大系による。

●高倉院升遐記八九

おなじ池に昔奉りなどせし御舟の破れたるを見て、松が浦島の心地して、

池水は水草おほひてしづみにし空しき舟のあとのみぞ見る

【語釈】◇松が浦島 源氏物語賢木巻、出家した藤壺を訪ねた源氏の歌「ながめかる海人のすみかと見るからにまづ潮たるる松が浦島」による。◇空しき舟 上皇の異称。

【付記】閑院の池で壊れた舟を見、亡き上皇を偲んで通親が詠んだ歌。

【関連歌】下2662

 

源家長日記

後鳥羽院の近臣源家長(生年未詳~一二三四)が院に仕えた日々を回想し、院の威徳への賞讃を綴った日記。成立は建暦元年(一二一一)~承久三年(一二二一)頃かという(『源家長日記全註解』解説)。以下、『源家長日記全註解』(有精堂)による。歴史的仮名遣に統一し、濁点・送り仮名を付し、踊り字を平仮名に改めた以外、全て同書に従った。

●源家長日記 正治二年院御百首

めされし百首のうたどもこのほどに参らせあはれたる中に、中将定家朝臣の百首歌のおくに侍し歌、

  君がよにかすみを分し蘆たづの

       さらにさはべにねをやなくべき

此歌はおもふ所はべるべし。在位御時五せちに事ありて、殿上はなたれて侍けるつきのとしの春、ちちの入道のよみて後白河法皇に奉られたる歌侍き。

  蘆田鶴の雲路まよひし年くれて

       かすみをさへやへだてはつべき

「返事せよ。」とおおせごと有ければ参議定長

  あしたづはかすみを分て帰るなり

       まよひし雲路今日やはる覧

かくて還昇せられてのち、よのかはる事有てかきこもられ侍き。いまは近衛殿関白せさせ給ゆゑなり。いまの摂政殿もとのやうに出仕せさせ給しに、此中将もおなじく出しせられしほどの事なり。哀におぼしめしけるにや、かくて還昇せらる。まことに此道をおぼしめさば、此人々いかが御めぐみも侍らざらむ。

【付記】俊成と定長の贈答歌は千載集に載る。(移動

【関連歌】上0993

 

●源家長日記 俊成入道九十の賀建仁三年

ことし三位入道はここのそぢの齢になんみち侍る。此のみちにかばかりたくみなる人の、いまによにのこれる事、きし方行すゑありがたかめるを、こぞ比までは御会のたびにつよつよしげにてまゐられしが、今年となりては、すこしのみじろきもかなはずとて、かきたえ参られず。それにつけてもこの世のめいぼくをきはめはてさせんとおぼしめして、かの光孝天皇の御時、はなの山の僧正仁寿殿ニめして、賀をたまはられるを例として、和歌所にして賀を給ふべき仰せを下さる。霜月の廿日あまり三日とさだめられて、先づ屏風の歌とてめされ侍り。

 春帖

   霞            摂政

  はるがすみしのに衣をおりはへて

       いかにほすらんあまのかごやま

   若草           御製

  したもゆる春日の野べの草のうへに

       つれなしとても雪の村ぎえ

   花            有家朝臣

  けふまでは木ずゑながらの山ざくら

       あすは雪とぞ花のふるさと

 夏帖

   郭公           前大納言

  ほととぎす鳴くべき声にさよふけて

       ふすかとすればしののめのそら

   五月雨          雅経

  かめのをのたきのしら玉千代のかず

       いはねにあまる五月雨のそら

   納涼           女房讃岐

  行きかへりすずみにきつつならしばや

       しばしの秋をたもとにぞしる

 秋帖

   秋野           女房宮内卿

  月といへばやどるかげまでまつものを

       露ふくくれの野べの秋かぜ

   月            御製

  あきの月しろきをみればかささぎの

       わたせるはしに月のさえたる

   紅葉           前大僧正 慈円

  ながめつる心の色を先づそめて

       このはにうつるはつしぐれかな

 冬帖

   千鳥           女房丹後

  来つつなけわがすむかたの友ちどり

       あしやのさとの夜半のかりねに

   氷            俊成女

  秋をへてやどりし水のこほれるを

       ひかりにみがく冬のよの月

   雪            定家朝臣

  はなの山あとをたづぬる雪のいろに

       としふるみちの光をぞ見る

此の題みなよみてまゐらせあはれたりしを、人々めしあつめて、一首づつえりいだされて、絵所のかしこきかぎりめして、此の歌の心いひきかせてかかせらる。このしきしがたは摂政殿かかせ給ふ。

【関連歌】中1817

 

日本漢詩

本朝麗藻

平安中期の漢詩文集。高階積善撰。西暦1010年頃の成立。本文は日本古典全集による(旧字は通用字に改めた)。

●本朝麗藻 代迂陵島人感皇恩詩 源為憲


遠来殊俗感皇恩 彼不能言我代言 一葦先摧身殆没 孤蓬暗転命纔存 故郷有母秋風涙 旅舘無人暮雨魂 豈慮紫泥許帰去 望雲遥指旧家園

【訓読】遠来の殊俗(しゆぞく)皇恩に感ずれど 彼言ふ(あた)はざれば我代りて言ふ 一葦(いちゐ)先に(くだ)けて身(ほとほ)と没す 孤蓬(こほう)暗転して命(わづ)かに存す 故郷に母有り秋風(しうふう)の涙 旅館に人無し暮雨(ぼう)の魂 ()(はか)らめや紫泥(しでい)帰去を許さんとは 雲を望み遥かに指す旧家の園

【語釈】◇殊俗 異国。異国の人。◇一葦 小舟。◇孤蓬 風で遠くまで飛ぶ(よもぎ)。漂流者の譬え。◇紫泥 不詳。詔(天子の仰せ)のことか。詔書には紫の印泥を用いた。◇旧家園 故郷すなわち迂陵島の家の園。

【付記】「迂陵(うりよう)島の人に代りて皇恩を感ずる詩」。我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の人に代って作ったという詩。藤原公任の家集に「新羅のうるまの島人きて、ここの人の言ふ事も聞きしらずときかせ給ひて」云々の詞書が見え、同じ頃の作と思われる。新撰朗詠集巻下「行旅」の部に「故郷有母秋風涙 旅舘無人暮雨魂」が引かれている。

【関連歌】下2617

 


公開日:2013年01月30日

最終更新日:2013年01月30日