『拾遺愚草』人名辞典 『拾遺愚草全釈』参考資料 

『拾遺愚草』(正編及び員外)に名を記された人物について、特に定家との関連に注意を払って記述した人名辞典です。姓は省きました。
『拾遺愚草』の歌番号は、冷泉為臣編『藤原定家全歌集』に従いました。

        ら・わ

あ行

家隆 いえたか(かりゅう) 保元三(1158)~嘉禎三(1237) 号:壬生二品・壬生二位

藤原北家、良門流。正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の子。中納言兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。
安元元年(1175)正月五日、従五位下。同二年正月三十日、侍従。文治元年(1185)十二月二十九日、越中守(兼侍従)。建久四年(1193)正月二十九日、侍従を辞し、正五位下に叙される。上総介を経て、元久三年(1206)正月十三日、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月五日、臨時の除目で従三位に叙せられる。承久二年(1220)三月二十二日、宮内卿を止め、正三位に昇る。嘉禎元年(1235)九月十日、従二位(極位)。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
俊成を師とし、定家と並び称された歌人。定家とは若い頃から親交があり、文治三年(1187)には『閑居百首』を共に詠じ、建久二年(1191)六月には定家の『伊呂波四十七首』(員外2992~3038)に唱和した。その後建久四年(1193)の『六百番歌合』、正治二年(1200)の『後鳥羽院初度百首』に出詠するなどして名を高め、定家らと共に後鳥羽院歌壇に迎えられて中心的なメンバーとして活躍した。和歌所寄人、新古今集撰者。承久三年(1221)の承久の乱後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には『家隆後鳥羽院撰歌合』の判者を務め、嘉禎二年(1236)には隠岐の後鳥羽院主催『遠島御歌合』に詠進した。千載集初出。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。
『拾遺愚草』には「越中侍従」「宮内卿」「前宮内卿」と称される。家隆が石清水臨時祭の舞人になった折に歌を贈答し、良経の死去の際に消息を交わし(2635、〔2636〕~2645)、定家の息女民部卿典侍が出家した折に和歌を贈答(2698)。また祝い事のあった折々、贈答歌を残している(2399、2400、2407)。

家長 いえなが 生年未詳~文暦元年(1234)

醍醐源氏。大膳大夫時長の子。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)正月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)正月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。妻は歌人の後鳥羽院下野。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。
後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。歌人としても活躍し、正治二年(1200)の『院後度百首』を始め多くの歌合・定数歌・歌会に出詠した。承元四年(1210)十月には自ら日吉社で歌会を開催し、定家も歌一首を提出している(2304番歌)。定家とは個人的な親交があり、たびたび定家邸に来談し、また歌を贈答した。定家出家の折贈った歌は『拾遺愚草』に収められている(2790番歌)。著書に後鳥羽院に仕えた日々を回想した日記『源家長日記』がある。新古今集初出。

家衡 いえひら 治承元(1177)~没年未詳

藤原北家末茂流、六条家。左京大夫顕輔の曾孫。父は宮内卿経家。母は藤原頼輔女。新古今撰者有家の甥。寿永二年(1183)二月十九日叙位。右兵衛佐・春宮権大進・春宮亮を経て、承元四年(1210)十二月二十六日、従三位。承久二年(1220)三月二十二日、正三位。嘉禄元年(1225)八月十四日、出家。『尊卑分脉』によれば内蔵頭・左兵衛佐。『拾遺愚草』には「六条三位家衡卿」として定家の弔問に返した歌二首を収める(〔2676・2677〕)。

家光 いえみつ 正治元(1199)~嘉禎二(1236)

藤原北家、内麿流、日野家。父は中納言資実。母は従三位平棟子。文章生・右衛門尉などを経て、建暦二年(1212)正月、蔵人。建保元年(1213)正月十六日、従五位下。同年四月、昇殿(明月記)。同年四月七日、宮内権大輔。建保六年(1218)十二月二十六日、学士。承久元年(1219)二月二十五日、蔵人。その後右少弁・左少弁・右中弁などを経、貞応三年(1224)七月六日、蔵人頭・左中弁。嘉禄元年(1225)十二月二十二日、参議・左大弁。同二年正月、造東大寺長官・丹波権守を兼ねる。寛喜三年(1231)四月二十六日、権中納言。嘉禎二年(1236)二月三十日、従二位(極位)。同年十二月九日、病により出家。同十四日、薨ず(三十八歳)。『拾遺愚草』によれば承久二年(1220)二月十三日、後鳥羽院の使者として定家邸に赴く(2602)。この時の肩書は「蔵人大輔」とある。蔵人兼宮内権大輔の略であろう。

磐姫皇后 いわのひめのおおきさき 生没年未詳

建内宿禰の孫。葛城襲津彦の女。仁徳天皇の皇后。履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の母。天皇の側室黒比売・八田皇女に対する激しい嫉妬の話が伝わる。古事記には「石之日売命」とあり歌謡二首を、日本書紀には「磐之媛命」とあり歌謡四首を伝える。万葉集には「磐姫皇后」とあり、短歌四首を載せる。万葉集最古の作者。『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2770)。

因子 いんし(よるこ) 建久六(1195)~没年未詳 通称:民部卿典侍

定家の長女。母は藤原実宗女。為家の同母姉。
元久二年(1205)、十一歳で後鳥羽院に出仕し、翌年高祖長家に因み民部卿の名を賜わる。承久の変後、安嘉門院(後高倉院皇女、邦子内親王)に出仕。寛喜元年(1229)、関白九条道家女(のちの藻壁門院)の入内にあたり、西園寺公経より懇請され、お付き女房として後堀河天皇に仕える。その後、典侍に補され、因子を名のった。天福元年(1233)九月十八日、藻壁門院が崩御すると、同月二十三日、殉じて出家した。『明月記』により嘉禎元年(1235)十二月までの生存が確認できる。
貞永元年(1232)の中宮和歌会・七首歌合・光明峯寺入道摂政家恋十首歌合・名所月歌合に出詠。新勅撰集初出。家集『民部卿典侍集』がある。父と共に古典の書写にも励んだ。
『拾遺愚草』には「典侍」と称され、出家に際し前宮内卿家隆から贈られた歌(〔2698a〕)と定家の返歌がある(2698)。

殷富門院大輔 いんぷもんいんのたいふ 生年未詳

藤原北家。三条右大臣定方の末裔。『尊卑分脉』によれば父は散位従五位下藤原信成。若くして後白河天皇の第一皇女亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。
平安末期宮廷で小侍従と並び称された女流歌人。永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、多くの歌合に参加し、また俊恵の歌林苑の会衆として同所の歌合にも出詠した。自らもしばしば歌会等を催し、文治三年(1187)春には定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を勧進した(『拾遺愚草』に「皇后宮大輔百首」として収録)。同じ文治年間に四天王寺で催した十首歌にも定家は出詠している(2780~2789)。建久四年(1193)二月、定家が母の喪に服していた折には弔問の歌を贈った(〔2614〕)。他に関連歌は2065・2628・2746。
建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家し、正治二年(1200)前後に亡くなったらしい。七十歳前後か。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。家集『殷富門院大輔集』がある。千載集初出。女房三十六歌仙。小倉百人一首に「見せばやな…」の歌が採られている。

か行

兼実 かねざね 久安五(1149)~建永二(1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など

九条家の祖。関白藤原忠通の男。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
保元三年(1158)正月、元服し、正五位下に叙せられる。権中納言・権大納言・内大臣を経て、仁安元年(1166)十一月十一日、右大臣に任ぜられる。寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。文治二年(1186)三月十二日、摂政基通が前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって摂政に就任した。文治五年(1189)十二月十四日、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年十二月十七日、関白に就任。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。しかし建久七年(1196)十一月二十五日、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。日記『玉葉』を残す。
千載集初出歌人。和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。
定家は文治五年(1189)頃から九条家の家司として兼実に仕えた。『拾遺愚草』には、建久七年(1196)三月、「関白殿」兼実が宇治で主催した歌会で定家が詠んだ歌を収める(下2066)。また「後法性寺入道関白殿」として、舎利講において十如是の心を定家に詠ませたとある(2733~2742)。

清範 きよのり 生没年未詳

藤原南家、貞嗣流。父は後鳥羽院の側近、権中納言範光。自身も院に近侍して判官代を勤める。建仁二年(1202)正月二十二日、左近衛将監(明月記)。内蔵権頭従五位上に至る(尊卑分脉)。能書家で、和歌所寄人も勤めた。承久三年(1221)の変後、入道して隠岐に随行したが、『明月記』嘉禄二年(1226)三月二十八日の記事に「夜前入洛」とあり、四月十八日に定家は逢って事情を聞いている。同年九月二十八日、再び隠岐に下向した。続後撰集初出。『拾遺愚草』には後鳥羽院との間の取次として名が出て来る(2401、2404、2566、2590)。

公経 きんつね 承安元~寛元二(1171-1244) 通称:一条相国・西園寺入道前太政大臣

藤原北家公季流、内大臣実宗の子。子に綸子(九条道家室)・実氏・実有・実雄ほかがいる。源頼朝の妹婿一条能保の女、全子を娶り、鎌倉幕府と強固な絆で結ばれた。定家は姉の夫にあたる。
治承三年(1179)、叙爵し、侍従・左少将・左中将などを経て、建久七年(1196)、蔵人頭。同九年正月、土御門天皇が即位すると、引き続き蔵人頭に補され、また後鳥羽上皇の御厩別当となる。参議・中納言を経て、承元元年(1207)には正二位権大納言に、建保六年(1218)十月には大納言に進む。
承久元年(1219)、三代将軍実朝が暗殺されると、幕府の要望にこたえ、外孫にあたる九条道家の第三子三寅を後継将軍として鎌倉に下らせた。同三年、院の倒幕計画を事前に察知し、弓場殿に拘禁されたが、その直前、鎌倉方に院の計画を牒報、幕府の勝利に貢献した。乱終結後は時局の収拾にあたり、後継の上皇に後高倉院を擁立。幕府の信頼を背景に、関東申次として京都政界で絶大の権勢をふるった。同年閏十月、内大臣。貞応元年(1222)八月、太政大臣に昇る。貞応二年(1223)正月、従一位(極位)。同年四月、太政大臣を辞任。寛喜三年(1231)十二月、出家。法名は覚勝。
その後も前大相国として実権を掌握し続け、女婿道家を後援して天皇外祖父の地位を与えた。仁治三年(1242)、後嵯峨天皇が即位すると孫娘を入内・立后させ、自ら皇室外戚の地位を占める。寛元二年(1244)八月二十九日、病により薨去。七十四歳。
晩年、北山にかまえた豪邸の有様は『増鏡』の「内野の雪」に詳しい。権力を恣にしたその振舞は「大相一人の任意、福原の平禅門に超過す」(『明月記』)、あるいは「世の奸臣」(『平戸記』)と評された。
新古今集初出の歌人。建仁二年(1202)の『千五百番歌合』や貞永元年(1232)以前の『洞院摂政家百首』など、主要な歌合・定数歌に出詠している。新勅撰集には三十首を採られ、入集数第四位。小倉百人一首に歌を採られている(入道前太政大臣「花さそふ嵐の庭の雪ならで…」)。『拾遺愚草』には「大宮大納言」として定家に贈った歌一首(〔2064〕)、「太政大臣」として定家に贈った歌一首(2327)を載せる。

公仲 きんなか 生没年未詳

藤原北家公季流、権中納言実綱(1127~1180)の子。妻は定家の姪(『明月記』嘉禎元年十二月三十日)で、俊成卿女の妹(同元久元年十一月二十九日)。『尊卑分脉』には「侍従 従五下」とあるが、『明月記』建仁三年(1203)正月七日に四位に加叙されたとある。同建保元年(1213)二月七日には「公仲朝臣後家」の記事が見え、これ以前に亡くなったと知れる。文治三年(1187)冬、冬十首歌を定家に詠ませる(2317~2326)。定家も参加した正治二年(1200)の石清水若宮歌合に「侍従公仲」として出詠している外、歌人としての事跡は未見。

公衡 きんひら 保元三~建久四(1158-1193) 通称:三位中将

藤原北家公季流、右大臣公能の四男。四歳で父を亡くし、兄実守の養子となる。母は藤原俊成の妹であり、定家の従兄にあたる。後徳大寺実定は同母兄。仁安元年(1166)叙爵し、嘉応二年(1170)、高倉天皇の侍従となる。寿永元年(1182)八月十四日、皇后宮権亮。元暦元年(1184)十月二十日、禁色を聴される。後鳥羽天皇の文治二年(1186)十二月十五日、任右中将。のち左中将に転じ、文治五年(1189)十二月三十日、従三位。建久四年(1193)二月二十一日、三十六歳で早世した。『公卿補任』によれば死因は「脚病并疱瘡」。
年少にして和歌を好み、治承二年(1178)三月十五日の別雷社歌合、文治二年(1186)十月二十二日の吉田経房主催歌合などに出詠。文治三年(1187)には殷富門院大輔勧進の百首歌に詠進した(「公衡百首」として新編国家大観に収録)。定家とは非常に親しく、例えば文治四年(1188)九月二十九日の『明月記』には殷富門院邸で定家と遭遇、女房たちを交え、連歌和歌などを夜通し楽しんだとある。『拾遺愚草』には主に「三位中将」として度々名を記され(2094番歌など)、歌の贈答も収められている(2394番歌、2395番歌、2495番歌)。没年の建久四年(1193)秋、定家は哀傷を籠めて十首歌を慈円に贈った(2618番歌以下)。家集に二種の百首歌を収めた『三位中将公衡卿集』がある。後鳥羽院撰『時代不同歌合』に歌仙として撰入。千載集初出。

小侍従 こじじゅう 生没年未詳(1121頃~1201以後) 通称:待宵小侍従・八幡小侍従

紀氏。父は石清水八幡別当大僧都光清。母は花園左大臣家小大進。殷富門院大輔は母方の従妹。
四十歳頃、夫の中納言藤原伊実と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。
歌人としての活躍は宮仕え以後にみられ、多くの歌合に出詠した。『無名抄』には殷富門院大輔と共に「近く女歌よみの上手」と賞されている。ことに新古今集に採られた「待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。後徳大寺実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人と交流があった。『拾遺愚草』には、小侍従の縁者の迎えに遣わされた時、小侍従への言伝とした定家の歌と、その返歌を収めている(2593)。
治承三年(1179)、六十歳頃に出家。最晩年も後鳥羽院歌壇などで活躍を続け、正治二年(1200)の『院初度百首』、建仁元年(1201)頃詠進の『千五百番歌合』に参加した。家集『小侍従集』がある。千載集初出。『歌仙落書』歌仙。女房三十六歌仙。

後鳥羽院 ごとばのいん 治承四(1180)~延応元(1239) 諱:尊成(たかひら)

治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。母は藤原信隆女、七条院殖子。子に為仁親王(土御門天皇)道助法親王・守成親王(順徳天皇)・雅成親王ほかがいる。
寿永二年(1183)、平氏が安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚した。翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。建久九年(1198)正月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に熱心に取り組み、たびたび歌会や歌合を催した。正治二年(1200)七月、『院初度百首和歌』(正治二年院百首)を召した際、定家の百首を読んで感心し、直ちに彼の内昇殿を許して、以後自らの主催する歌壇において定家を重用した。建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興し、同年十一月、定家・有家・通具・家隆・雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。同歌集の編纂には自ら深く関与し、四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。
承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化した。同二年二月、定家の歌(下2603)に怒り、蟄居を命ずる。同三年五月、北条義時追討の兵を挙げたが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北し、七月に出家して隠岐に配流された。以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、家隆ら在京の歌人の歌を召す。延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。同年五月、顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。
崩後の他撰と思われる『後鳥羽院御集』があり、歌論書に『後鳥羽院御口伝』がある。新古今集初出。
『拾遺愚草』には『正治二年院百首』『千五百番歌合』『院五十首』の詠進の下命者として「太上皇」と記されるほか、多くの定数歌・歌合・歌会の主催者として大きな影を落としていることは言うまでもない。

惟明親王 これあきらしんのう 治承三(1179)~承久三(1221) 通称:三宮・大炊御門宮

高倉天皇の第三皇子。母は平義範女、少将局。安徳天皇・守貞親王(後高倉院)の異母弟。後鳥羽天皇の異母兄。伯母の式子内親王と交流があった(新古今集138)。
寿永二年(1183)、安徳天皇が平氏に奉ぜられて西下すると、皇位継承候補と目されたが、外祖父義範はすでに亡く、有力な後見を持たなかったことが災いしたか、結局弟の四宮が即位した(後鳥羽天皇)。文治五年(1189)十一月、親王宣下を受け、建久六年(1195)、七条院殖子の猶子となって元服、三品に叙せられた。承元五年(1211)二月、出家。法名は聖円。承久三年五月三日、入寂。四十三歳。
新古今集初出歌人。『正治初度百首』『千五百番歌合』など、後鳥羽院歌壇の催しに参加し、自邸でも定家・家隆らを招いて歌会を催した。『新時代不同歌合』歌仙。
『拾遺愚草』には「三宮」と称され、十五首歌を定家に召したことが知られる(2037ほか)。

さ行

西行 さいぎょう 元永元(1118)~建久元(1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

藤原北家魚名流と伝わる(たわらの)藤太(とうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士となるが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。これに先立ち、伊勢神宮に奉納する百首歌を隆信・寂蓮・家隆・定家ら俊成門の新進歌人たちに勧めた(二見浦百首)。七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成し、判詞を年来の友俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは当時二十六歳の定家に判を依頼した。定家の判詞は文治五年に完成され、外宮に奉納されるが、この際、西行と贈答した歌が『拾遺愚草』に収められている(2594・2595)。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。その死を聞き知った定家は親友の公衡に哀悼の歌を贈った(2634)。
家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゆう)』及び『残集(ざんしゆう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する。勅撰集は詞花集に初出(よみ人しらず)、新古今集では九十五首の最多入集歌人。

斎宮女御 さいぐうにょうご 延長七(929)~寛和元(985) 諱:徽子(きし)女王

醍醐天皇第四皇子重明親王の女。母は太政大臣藤原忠平女、寛子。
天慶元年(938)、斎宮として伊勢に下る。同八年、母の喪により退下。天暦二年(948)十二月、叔父にあたる村上天皇に入内、翌年女御となり、規子内親王を生む。応和二年(962)九月、皇子を生むが、その日の内に夭折した。以後長く病に悩み、里第に逗留する。康保四年(967)五月二十五日、村上天皇は崩御。円融天皇即位後の天延三年(975)、娘の規子内親王が斎宮に卜定され、貞元二年(977)、娘に同行して伊勢に下る。永観二年(984)、円融天皇の譲位により、規子内親王は斎宮を解任され、この時徽子も帰京したか。その後出家したとも言うが、晩年の消息は定かでない。寛和元年(985)夏頃卒去。五十七歳。
天暦十年(956)三月の『斎宮女御徽子女王歌合』を催すなど、和歌サロンを主宰し、源順・大中臣能宣ら文人を出入りさせた。三十六歌仙の一人。他撰の『斎宮女御集(斎宮集とも)』がある。拾遺集初出。源氏物語の六条御息所のモデルと見なされている。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2773)。

坂上郎女 さかのうえのいらつめ 生没年未詳

大伴安麻呂と石川内命婦の間の子。旅人の異母妹。家持の叔母、姑。坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。
初め穂積皇子に嫁すが、霊亀元年(715)に皇子は薨去し、養老末年頃、異母兄大伴宿奈麻呂の妻となって坂上大嬢(おおいらつめ)(家持の妻)・二嬢(おといらつめ)を生んだ。おそらく神亀元年(724)~四年頃宿奈麻呂は卒し、のち、旅人を追って大宰府に下向する。帰京後は佐保邸に留まり、一家の刀自として、また氏族の巫女的存在として、また恐らくは家持の母代りとして、大伴氏を支えた。
額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力。万葉集に長短歌八十四を所載。女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2778)。

慈円 じえん 久寿二(1155)~嘉禄一(1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀局(忠通家女房)。九条兼実の弟。良経の叔父。
永万元年(1165)、覚快法親王に入門し、道快を名のる。仁安二年(1167)、得度。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思い止まった。養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈円と名を改めたという。寿永元年(1182)、全玄より伝法灌頂を受ける。文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就くと、平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。建久三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。
後鳥羽院政下の建仁元年(1201)二月、再び座主に補せられ、この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになり、和歌所寄人にも任命された。同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれる。その後も勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、仏法興隆に努めた。建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰し、建保二年(1214)六月まで在任した。後鳥羽院とは昵懇の仲であったが、反幕に傾く院に対し、慈円は公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とし、次第に疎隔を生じた。建保末年頃から病のため籠居し、承久の乱に際しては難を逃れた。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。著書に歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)、家集『拾玉集』(死後、尊円親王らの編)、佚名の『無名和歌集』などがある。千載集初出。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。
定家は九条家の家司となったことから若年期より慈円と親交を深め、文治五年(1189)春、慈円の『早率露胆百首』(『拾玉集』に「楚忽第一百首」と表題する百首の別称)に和して『奉和無動寺法印早率露胆百首』を詠み(上0401以下)、同年三月にも再度慈円に和して『重奉和早率百首』を詠んだ(上0501以下)。建保六年(1218)の『文集百首』も慈円に和したものである(員外3198以下)。『拾遺愚草』下巻には「山座主」「大僧正」「前大僧正」と称し、建久四年(1193)九月尽日、服喪中の定家が「山座主」に奉った歌(下2618~2627)とその返歌(下〔2618〕~〔2627〕)、元久二年(1205)四月の「大僧正」の長反歌(下〔2596〕・〔2597〕)と定家の返歌(下2596・2697)、建永二年(1207)の「大僧正十首御歌への返し」(下2664~2673)、また承久三年(1221)九月十三夜に定家が「前大僧正」に贈った歌(下2604~2613)、及び定家に対する慈円の返歌(下〔2604〕~〔2613〕)を収めている。

重保 しげやす 元永二(1119)~建久二(1191)

賀茂氏。賀茂神主重継の子。嘉応元年(1169)、従四位下。治承元年(1177)、賀茂神主となる。号、藤木神主。千載集初出の歌人。俊恵の歌林苑の会衆であり、また経済的な支援者でもあったという。治承年間(1177~1183)以後、別雷社・賀茂社・自邸で歌会・歌合を盛んに主催した。治承二年(1178)三月十五日の別雷社歌合には当年十七であった定家も出詠しており、記録に残る限りではこれが定家の処女作である(員外之外3973~3975)。また元暦元年(1184)九月の賀茂社歌合にも定家は出詠(2183番歌)。寿永元年(1182)までに重保が編纂した私撰集『月詣和歌集』には定家の歌が九首採られている。

寂蓮 じゃくれん 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道

生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の男。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。
官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。
千載集初出歌人。文治二年(1186)西行勧進の『二見浦百首』、同三年の『殷富門院大輔百首』、建久元年(1190)の『花月百首』など、多くの百首歌に出詠し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の『六百番歌合』では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集撰者に任命される。しかし翌年の建仁二年(1202)五月の仙洞影供歌合出詠を最終事跡とし、間もなく没した。定家がその死を知ったのは同年七月二十日で(明月記)、その後定家が雅経と交わした哀傷歌が『拾遺愚草』に収められている(2679)。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。

守覚法親王 しゅかくほっしんのう 久安六(1150)~建仁二(1202)

後白河天皇の第二子。母は大納言藤原季成女、高倉三位局成子。二条天皇の異母弟。式子内親王の同母弟。久寿二年(1155)、六歳の時、父が即位し、翌年の保元元年(1156)、仁和寺に入った。嘉応元年(1169)、仁和寺法主となる。同二年閏四月、親王宣下。安元二年(1176)三月、二品に叙せられる。建仁二年(1202)八月二十六日、仁和寺喜多院で入寂。五十三歳。学才にすぐれ、御室法流の中興と称せられた。和歌にも熱心で、治承頃から仁和寺で月例歌会を催行し、僧侶歌人や平家歌人が集った。治承二年(1178)には俊成・俊恵・重家らに家集を献上せしめ、また寿永頃、顕昭に命じて『堀河百首』や『散木奇歌集』などの注釈書を執筆・献上させるなどした。建久九年(1198)、仁和寺の僧侶歌人グループに御子左家歌人(俊成・定家・寂蓮)や六条藤家歌人(顕昭・季経・藤原有家)ら十七名を加えて五十首歌を詠進させ(仁和寺宮五十首または守覚法親王家五十首などと称される)、建仁元年(1201)にはこの五十首より選んで『御室撰歌合』を結番した。この五十首歌にはその後新古今集に採り入れられた秀歌が少なくなく、定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして…」なども、この五十首歌から生まれたものである。正治二年(1200)には後鳥羽院の初度百首に詠進。家集『守覚法親王集』『北院御室御集』があり、『守覚法親王百首』がある。他の著書に『野目鈔』『左記』『右記』、日記『北院御日次記』など。千載集初出。

俊恵 しゅんえ 永久元年(1113)~没年未詳

源俊頼の男。大治四年(1129)、十七歳の時父と死別し、その後、東大寺に入り僧となる。やがて歌人としての名が高まり、永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ多くの歌合・歌会に参加した。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人を集めて月次歌会や歌合を催し、新古今前夜の歌壇を盛り上げた。家集『林葉和歌集』がある。俊成と交流があり、定家が初めて堀河題を詠んだ時、訪問して「饗応之涙」を拭ったという(拾遺愚草員外)。弟子に鴨長明がいる。中古六歌仙。詞花集初出。

証空 しょうくう 治承元(1177)~宝治元(1247) 号:解脱房・善慧房

浄土宗西山派の祖。加賀権守源親季の男。源通親の猶子となるが、建久元年(1190)法然房源空に入門し、浄土教の研究に励んで高弟となる。初め解脱房、のち善慧房と号した。建暦二年(1212)、源空の死後、慈円の委嘱を受けて西山善峰寺に移る。九条道家を始めとして多くの貴族が帰依し、為家の舅宇都宮蓮生も長く師として随逐したという(『明月記』安貞元年七月六日)。宝治元年(1247)十一月二十六日、寂。
『拾遺愚草』には定家が人に勧められ「解脱房のため」詠んだという歌がある(2766)。また『明月記』には、「解脱房」の名で元久二年(1205)八月十二日後鳥羽院の仏事において導師を務めたことや、建暦元年(1211)十二月十二日宜秋門院の請で仏事を行ったことなどが見える。

季経 すえつね 天承元(1131)~承久三(1221)

藤原北家末茂流、六条家。左京大夫顕輔の子。久安二年(1146)七月一日、叙爵。中宮亮・宮内卿などを経て、文治五年(1189)七月十日、従三位に叙せられる。建久九年(1198)十二月九日、正三位(極位)。建仁元年(1201)十二月五日、出家。法名は蓮経。
治承元年(1177)、歌壇を主導していた異母兄清輔が没すると、その和歌文書や人麿影を相伝し、歌道家六条藤家を率いたが、歌才は御子左家の指導者俊成に遠く及ばず、歌壇の主導権を奪われるに至る。建久四年(1193)の『六百番歌合』、正治二年(1200)の『院初度百首』などに出詠し、建仁元年(1201)に企画された『千五百番歌合』では判者も務めた。家集『季経入道集』がある。千載集初出。
『拾遺愚草』には「三位季経卿」として建久四年(1193)五月、母の喪に服していた定家のもとに贈った弔いの歌を収める(〔2616〕)。『明月記』正治二年(1200)四月六日条によれば、定家は季経が判者となった歌合に出詠することを辞退する仮名状に「季経等が如きゑせ歌読み判の時、堪へ難き」云々と書き、季経の怒りを買ったという。また同月九日条には季経らが良経に定家を讒言した旨ある。

藻壁門院 そうへきもんいん 承元三(1209)~天福元年(1233) 諱:藤原竴子

後堀河天皇の中宮。四条天皇の母。父は九条道家。母は西園寺公経女、綸子。寛喜元年(1229)十一月、入内し後堀河天皇の女御となる。この際、月次屏風のため和歌が詠進され、定家も歌人の一人として加わった(女御入内御屏風和歌)。またこの時定家の長女因子は後堀河天皇御付の女房となって仕えた。寛喜二年(1230)二月十六日、立后し、中宮となる。同三年二月十二日、秀仁親王(四条天皇)を生む。貞永元年(1232)十月四日、四条天皇が践祚し、国母となる。天福元年(1233)四月、院号宣下。同年九月十八日、皇子を死産し、直後に崩じた。二十五歳。同月二十三日、因子は女院の崩御に殉じて出家し、この件につき、定家が家隆と贈答した歌が『拾遺愚草』に収められている(2698)。

衣通王 そとおりのおおきみ 生没年未詳

日本書紀によれば、応神天皇の子稚渟毛二岐皇子(わかぬけのふたまたのみこ)の姫で、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹。容姿絶妙で、その美しさは衣を透して輝いたという。允恭天皇に寵愛されたが、皇后の嫉妬を怖れた天皇により、河内の茅渟宮に移された。但し古事記では允恭天皇の皇女で母は忍坂大中津比売命とし、軽大郎女と同一人物としている。後世、紀伊国和歌の浦の玉津島神社に祭られる玉津島姫と同一視され、和歌三神の一として崇敬された。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2777)。

た行

高子 たかいこ 承和九(842)~延喜十(910) 号:二条の后

藤原北家、冬嗣の孫。権中納言長良(ながら)の女。国経・基経らの妹。陽成天皇の母。
貞観元年(859)十一月、清和天皇即位に伴う大嘗祭において五節舞姫を勤め、これにより従五位下に叙せられる。貞観八年(866)、二十五歳の時、九歳年下の清和天皇の女御となる。二年後、第一皇子貞明親王を出産。貞明親王は貞観十一年(869)、二歳で立太子し、同十八年、清和天皇の退位を受けて践祚。元慶元年(877)、即位した(陽成天皇)。これに伴い高子は皇太夫人となり、清和上皇・摂政基経と共に幼帝を輔佐した。しかし清和上皇が崩御すると基経と対立し、同七年、陽成は退位に追い込まれた。光孝天皇が即位し、高子は皇太后となるが、この頃内裏を離れて二条院に移った。寛平八年(896)、自ら建立した東光寺の座主善祐との密通を理由に皇太后を廃されるが、死後の天慶六年(943)、号を復された。
『伊勢物語』によって流布された業平との恋物語は名高い。勅撰入集は古今集の一首のみ。『拾遺愚草』では「二条后」の名で「卒塔婆供養」の歌に詠まれている(2771)。

高津内親王 たかつのみこ 生年未詳~承和八(841)

桓武天皇の皇女。母は従五位下坂上又子(苅田麻呂の女)。異母兄の神野親王と結婚し、親王が嵯峨天皇として即位するに伴い、大同四年(809)六月十三日、妃となり三品に叙せられたが、ほどなく妃を廃せられた(詳細は不明)。『後撰集』に一首入集(巻一六・一一五五)。また『古今集』にも「ある人のいはく、高津のみこの歌なり」と注する歌がある(巻一八・九五九)。『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2772)。

隆衡 たかひら 承安二(1172)~建長六(1254) 号:鷲尾大納言・按察使入道

六条藤原家顕季の裔。四条家祖隆季の孫。隆房の男。母は平清盛女。女の貞子は西園寺実氏室、大宮院・東二条院の母で北山准后と称された。
安元二年(1176)正月五日、叙爵。侍従・右馬頭などを経て、正治元年(1199)三月二十三日、左馬頭。建仁元年(1201)正月二十九日、内蔵頭を兼ねる。建仁元年(1201)八月十九日、蔵人頭(兼内蔵頭)。同二年七月二十三日、参議。同三年十月二十四日、従三位。元久三年(1206)二月二十二日、右衛門督を兼ねる。建永二年(1207)十月二十九日、権中納言。建暦二年(1212)六月二十九日、中納言に転ず。建保二年(1214)二月十四日、正二位(極位)。建保七年(1219)三月四日、権大納言。承久二年(1220)正月二十五日、辞職するが、翌年十一月二十九日、本座。貞応元年(1222)四月十三日、按察使に任ぜられる。安貞元年(1227)までこの職にあり、同年九月出家した(公卿補任による。明月記によれば出家は前年の嘉禄二年九月)。法号は寂空。建長六年(1254)十二月、薨去。八十三歳。
新勅撰集初出歌人。『拾遺愚草』には「按察入道」と称され、定家が出家した折に贈った歌を収める(〔2791〕)。『明月記』には除目の記事などに頻出するが、建保元年の記事には「向納言」「向中納言」とあり(六月八日・十一月十二日)、当時定家の冷泉亭の向かいに住んでいたか。

隆房 たかふさ 久安四(1148)~承元三(1209) 号:冷泉大納言

六条藤原家顕季の裔。正二位権大納言隆季の嫡男。母は従三位藤原忠隆女。平清盛女を妻とし、権大納言隆衡・河内守隆宗らを儲けた。子にはほかに僧正隆弁、摂政師家の室となった女などがいる。
永暦元年(1160)二月二十八日、加賀守に任ぜられたのを始め、因幡守・右少将・右中将・左中将・蔵人頭などを経て、寿永二年(1183)十二月十日、参議に任ぜられ、右兵衛督を兼ねる。同三年七月二十四日、従三位。文治五年(1189)七月十七日、権中納言。建久六年(1195)正月五日、従二位に叙され、同じ日従四位上に昇叙された定家に対し、翌朝贈った祝歌が『拾遺愚草』に収められている(2591)。正治元年(1199)六月二日、中納言に転ず。同年十一月二十七日、正二位(極位)。同二年三月六日、中納言を辞したが、建仁四年(1204)三月六日、権大納言として復帰した。元久二年(1205)正月二十九日、再び辞職し、翌建永元年(1206)六月、出家。法名寂恵。三年後、六十二歳で薨じた。
千載集初出歌人。『御室五十首』『正治初度百首』などに出詠。家集『隆房集』(異本『艶詞』)がある。『平家物語』に描かれた小督との恋は名高い。

篁 たかむら 延暦二十一(802)~仁寿二(852)

小野氏。参議岑守の長子。弘仁十三年(822)、二十一歳の時文章生の試験に及第し、その後東宮学士などを経て、承和元年(834)正月、三十三歳で遣唐副使に任命される。翌承和二年に出帆したが、難破して渡唐に失敗し、同三年にも出航して果たさなかった。同五年、三度目の航海に際し、大使藤原常嗣の遣唐使船が損傷したため篁の乗る第二船と交換されることとなり、これに抗議して、病身などを理由に進発を拒絶した。しかも大宰府で嵯峨上皇を諷する詩を作ったため、上皇の怒りに触れて官位を奪われ、隠岐に流された。二年後、その文才を惜しまれて帰京を許され、諸官を経て、承和十四年、参議に就任。仁寿二年(852)、従三位に至ったが、同年十二月二十二日、薨去。五十一歳。
漢詩文にすぐれ、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』などに作を残す。『野相公集』五巻があり、鎌倉時代まで伝存したというが、その後散佚した。六歌仙時代の直前に位置する、和歌史上重要な歌人でもある。歌物語風の『篁物語』(『小野篁集』とも)は後人の創作である。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2776)。

忠明 ただあき 寿永二年(1183)~没年未詳

藤原(中山)氏。師実流。内大臣中山忠親の子。権大納言兼宗の弟。少納言・左少将・左中将などを経て従三位に至る。建長三年(1251)、六十九歳で出家(公卿補任)。『拾遺愚草』によれば承元二年(1208)、賀茂祭の勅使として神館に泊まった翌朝、定家より歌を贈られ、これに返している(2098番歌)。時に少将。建暦二年(1212)七月二十三日には『内大臣家詩歌会』に参席。歌人としての顕著な事跡は見えない。

為家 ためいえ 建久九(1198)~建治元(1275) 通称:民部卿入道・中院禅門

定家の二男。母は内大臣藤原実宗女。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱女・阿仏尼を妻とした。
建仁二年(1202)十一月十九日、叙爵(従五位下)。元久三年(1206)正月十七日、従五位上に昇る。この際、定家は雅経と歌を贈答(2396)し、また家長と贈答する(258)。承元元年(1207)より後鳥羽院に伺候し、同三年(1209)四月十四日、侍従に任ぜられる。同四年七月二十一日、定家の権中将辞任に伴い、左少将に任ぜられる。承元四年(1210)の順徳天皇践祚後はその近習として親しく仕えた。建保五年(1217)十二月十日、左中将に昇進。承久の乱後、順徳院の佐渡遷幸に際しては供奉の筆頭に名を挙げられたが、結局都に留まった。後堀河天皇の嘉禄元年(1225)十二月二十六日、蔵人頭に任ぜられ、定家は子の栄誉に歓喜の涙を流した。同二年四月十九日、参議に就任し、侍従を兼ねる。嘉禎二年(1236)二月三十日、権中納言。同四年七月二十日、正二位(極位)。仁治二年(1241)二月一日、権大納言に任ぜられるが、八月二十日定家が亡くなり服喪し、その後復任はしなかった。後深草天皇の建長二年(1250)九月十六日、民部卿を兼ねる。康元元年(1256)二月二十九日、病により出家し、嵯峨中院山荘に隠棲した。後宇多天皇の建治元年(1275)五月一日、薨。七十八歳。新勅撰集初出。家集は『大納言為家集』『中院集』など数種が伝わり、歌論書には『詠歌一躰』ほかがある。
十代半ばから順徳天皇の内裏歌壇で活動を始めるが、若い頃は蹴鞠に熱中して歌道に精進せず、父定家を歎かせた。歌作に真剣に取り組むようになるのは建保末年頃からで、承久元年(1219)には『内裏百番歌合』に出詠し、貞応二年(1223)には慈円の勧めにより五日間で千首歌を創作した(『為家卿千首』)。その後歌壇で広く活躍し、仁治二年(1241)、定家が亡くなると御子左家を嗣いで、歌合の判者を務めるなど歌壇の重鎮として揺るぎない地位を得た。宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集単独編纂を仰せ付かり、建長三年(1251)、『続後撰和歌集』として完成奏覧。文永二年(1265)奏覧の『続古今和歌集』でも撰者の一人となった。晩年は側室の阿仏尼(安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に為氏・為相の遺産相続争いの原因を作った。

親成 ちかなり 康治元年(1142)~寛喜二(1230)

祝部(はふりべ)氏。代々日吉社の社司を務めた家柄。詞花集初出の歌人成仲(1099~1191)の孫。新古今集初出の歌人允仲(まさなか)の兄弟(古代豪族系図集覧)。筑前介。定家と親しく、『明月記』にはたびたび「来談」の記事がある。寛喜元年(1229)五月九日には「生年十歳より相見る。図らずも五十九年師檀の(よし)み」とある。翌年の寛喜二年(1230)十月二日の記事によれば、同年九月三十日、八十九歳で亡くなった。「九十の賀算を好み、其の命を惜むと云々」。『拾遺愚草』下の賀部に定家が七十賀・八十賀に詠んだ歌が収められている(2409・2410)。

土御門院 つちみかどいん 建久六(1195)~寛喜三(1231) 諱:為仁

後鳥羽院の第一皇子。母は承明門院在子(源通親の養女)。順徳天皇の異母兄。後嵯峨天皇の父。
建久九年(1198)正月十一日、四歳で立太子し、即日受禅。三月三日、即位。十六歳になる承元四年(1210)十一月二十五日、皇太弟守成親王(順徳天皇)に譲位し、以後「新院」と呼ばれた。承久三年(1221)の乱には関与せず、幕府からの咎めもなかったが、後鳥羽院が隠岐へ、順徳院が佐渡へ流されるに際し、自らも配流されることを望んだ。同年閏十一月、土佐に遷幸し、翌年幕府の意向により阿波に移る。寛喜三年(1231)十月、出家。法名は行源。同月十一日(または十日)、阿波にて崩御。三十七歳。
和歌を好んだが、父帝や順徳院と異なり歌壇的な活動には熱心でなかった。建保四年(1216)三月成立の『土御門院御百首』には定家・家隆の合点、定家の評が付されている。『拾遺愚草』によれば、承久二年(1220)八月、蟄居中の定家に忍んで歌を召している(2463・2600)。また2584番歌の詞書「承元のころほひ、内より古今をたまはりて」の「内」は土御門天皇を指そう。御製を集めた『土御門院御集』がある。続後撰集初出。

経房 つねふさ 康治二(1143)~正治二(1200) 号:吉田大納言

藤原北家高藤流、権右中弁光房の男。母は藤原俊忠女(俊成の妹)。定家の従兄。久安六年(1150)、蔵人に補せられ、叙爵される。蔵人頭・右大弁などを経て、養和元年(1181)十二月四日、参議に任ぜられる。寿永三年(1184)九月十八日、権中納言に進む。文治元年(1185)十月十一日、大宰権帥を兼ねる。建久元年(1190)八月十三日、民部卿に任ぜられる。同二年正月七日、正二位(極位)。同六年十一月十日、中納言に転ず。同九年十一月十四日、権大納言。正治二年(1200)二月三十日、出家。同年閏二月十一日薨ず。五十八歳(公卿補任によれば五十九歳)。
千載集初出の歌人。大宰権帥であった文治二年(1186)十月二十二日、歌合を催し(新編国歌大観に「歌合文治二年」として収録)、定家も五首出詠した(員外之外3976~3980)。また建久六年(1195)正月二十日にも自邸で「民部卿経房卿家歌合」を催し、この時も定家は出詠して『拾遺愚草』に一首を遺す(2101)。同じ時の他の四首は『員外之外』3981~3984。

定家母 ていかのはは 生年未詳~建久四(1193) 通称:美福門院加賀

藤原北家、魚名の裔、若狭守などを勤めた藤原親忠の女。父がその乳父であった縁からか鳥羽天皇皇后藤原得子(美福門院)に仕え、美福門院加賀と呼ばれた。皇后宮少進為経(寂超)の妻となり、康治元年(1142)、隆信を生む。為経が康治二年(1143)に出家した後、俊成と再婚し、久寿二年(1155)に成家を、応保二年(1162)に定家を生んだ。晩年出家し、建久四年(1193)二月十三日、没(七十歳前後か)。法性寺の山の奥に葬ったという(隆信集)。勅撰入集は新古今・新勅撰に各一首。
『拾遺愚草』には母の喪に服していた時の定家と俊成の贈答(〔2554〕ほか)、同じ頃の殷富門院大輔良経・俊成との贈答(〔2614〕~2617)を収める。また「母の遠忌」(2602)、「母の周忌」(2754)に詠んだ歌を収めている。

道助法親王 どうじょほっしんのう 建久七(1196)~宝治三(1249) 諱:長仁 通称:入道二品親王・鳴滝宮・仁和寺宮・後仁和寺宮・光台院御室・高野御室

後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。七条院の猶子となり、正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入る。建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。寛喜三年(1231)三月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。建長元年(1249)一月十六日、入滅。五十四歳。御集が伝わるが上巻を欠く。新勅撰集初出。『新時代不同歌合』歌仙。
建保二年(1214)二月頃の『後仁和寺宮花鳥十二首』、承久元年(1219)頃の『仁和寺宮五十首(道助法親王家五十首和歌)』、嘉禄元年(1225)四月下旬に計画された『道助法親王家十首和歌』を主催し、いずれも定家は詠進している。『拾遺愚草』には他に「老後、仁和寺宮しのびておほせられし五首」(2085~2088)、「仁和寺宮よりしのびてめされし秋題十首」(2251~2260)、「仁和寺宮にて寄松祝」(2389)、「仁和寺宮花五首」(2453)、「建保五年三月、御室にて三首」(2598・2599)、「御室にて上陽人を」(2601)を収録する。また2586番歌には「ふるき哥をかきいだして、仁和寺宮にまゐらすとて」とあり、道助法親王に家集を献上したことがあったらしい。『明月記』にも主として「仁和寺宮」「御室」と称され、度々交流のあったことが知られる。

俊忠 としただ 延久三(1071)?~保安四(1123) 通称:二条帥

俊成の父。定家の祖父。大納言忠家の男。母は権大納言藤原経輔女(公卿補任)。生年は延久五年とも。
応徳三年(1086)十一月二十日、侍従。寛治二年(1088)正月五日、従五位上。以後、左少将・右中将・蔵人頭などを経て、嘉祥元年(1106)十二月二十七日、参議に就任。永久二年(1114)正月五日、従三位。保安三年(1122)十二月十七日、権中納言。同二十一日、大宰権帥を兼ねる。同四年七月九日、薨。公卿補任によれば五十一歳。
歌人としては主に堀河院歌壇で活躍し、内裏歌会や堀河院艶書合などに出詠した。寛治五年(1091)には白河上皇の大井川御幸に際し献歌。長治元年(1104)には自邸で歌会を催し、藤原基俊・源俊頼・祐子内親王家紀伊ら当時の有力歌人の多くを集めている。『拾遺愚草』には「祖父中納言」として見える(2406番歌)。家集『俊忠集』がある。金葉集初出。後鳥羽院撰『時代不同歌合』に歌仙として撰入。

俊成 としなり(しゅんぜい) 永久二(1114)~元久元(1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

御子左(みこひだり)家。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局を儲けた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。その後加賀守・遠江守・三河守・丹後守・左京大夫などを経て、仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられる。この時五十三歳。翌年正月二十八日、正三位。また同年十二月二十四日、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)二月十日、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)九月二十八日、重病に臥し、出家して釈阿と号す。この時六十三歳。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
長承二年(1133)前後、為忠家の百首歌に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられ、歌壇の重鎮としての地位を不動とした。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年十一月二十三日、院より九十賀の宴を賜わる。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集初出。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)ほかがある。
『拾遺愚草』には「入道殿」と称され、建久四年(1193)暮、母の喪に服し比叡山の中堂に籠っていた定家に贈った歌二首(〔2554〕・〔2555〕)、同年秋に定家に返した歌(〔2617〕)を収める。

具親 ともちか 生没年未詳 通称:小野宮少将

村上源氏。小野宮大納言師頼の孫。右京権大夫師光の子(二男か)。母は巨勢宗成女、後白河院安藝。宮内卿の同母兄。北条重時の女を娶り、輔道を儲ける。
能登守・左兵衛佐などを経て、従四位下左近少将に至る。出家後は如舜を称す。
後鳥羽院歌壇で活躍し、『正治後度百首』『千五百番歌合』、承元元年(1207)『最勝四天王院障子和歌』などに詠進した。建仁元年(1201)、和歌所寄人となる。承久の乱後はほとんど歌を残していないが、建長五年(1253)の藤原為家主催『二十八品並九品詩歌』に如舜の名で出詠している。新古今集初出。鴨長明『無名抄』に逸話が見え、妹の宮内卿と対照的に歌に熱心でなかったと伝える。定家とは親しく、『明月記』には嵯峨草庵の歌会に同座したり、定家邸に来談したことなどが見える。『拾遺愚草』には「少将具親朝臣」として、承元二年(1208)、石清水八幡宮・住吉社・広田社の三社で披講する歌を勧進したことが知られる(2573・2574、2703~2706)。

な行

長方 ながかた 保延五(1139)~建久二(1191)

藤原北家、三条右大臣定方の末裔。権中納言顕長の長男。母は藤原俊忠女。もとの名は憲頼。俊成の養父顕頼の甥にあたり、また俊成の甥でもある。定家の従兄にあたる。子に権中納言宗隆・同長兼ほかがいる。
久安二年(1146)七月十日、叙爵して蔵人となる。丹波守・参河守・皇后宮権大進・左少弁・左中弁・蔵人頭・右大弁などを経て、安元二年(1176)十二月五日、参議となる。治承元年(1177)十二月十七日、従三位に叙せられる。治承四年(1180)二月二十一日、高倉院の別当となる。養和元年(1181)十二月四日、権中納言に昇進。寿永二年(1183)十二月二十二日、従二位。文治元年(1185)六月、出家。建久二年(1191)三月十日、薨。五十三歳。
元暦元年(1184)の別雷社後番歌合などに出詠。自邸でも歌合を催した。『拾遺愚草』には、中納言の時、定家に五首歌を詠ませたとある(2459)。家集『按納言長方集』がある。千載集初出。定家撰『百人秀歌』に撰入された。

中務 なかつかさ 延喜十二(912)頃~正暦二(991)頃

敦慶(あつよし)親王(宇多天皇の皇子)と伊勢の間の子。「中務」の名は、父が中務卿であったことによる。
藤原実頼・同師輔・元長親王(陽成院の皇子で元良親王の弟)・常明親王(醍醐天皇の皇子)ほかとの恋を経て、源信明(さねあきら)と結婚する。延長七年(929)頃、女児を生む。八十に及ぶ長寿を保つが、晩年は娘と孫に先立たれる不幸に遭った。
後撰集時代の代表的女流歌人。天暦十年(956)二月の麗景殿女御歌合、天徳四年(960)三月の内裏歌合などに出詠し、屏風歌なども多く詠進した。晩年の紀貫之や、源順・恵慶法師・清原元輔ら著名歌人との交流が知られる。三十六歌仙・女房三十六歌仙。後撰集初出。家集『中務集』がある。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2779)。

は行

八条院 はちじょういん 保延三(1137)~建暦元(1211) 諱:暲子

保延三年(1137)四月八日、鳥羽天皇と皇后藤原得子(美福門院)の間に生れる。同四年四月に内親王宣下され、久安二年(1146)四月、准三后。父帝崩後の保元二年(1157)五月、落飾。応保元年(1161)十二月、院号宣下される。両親の莫大な荘園を伝領し、多大な経済力を得て政治的にも大きな影響力を有した。以仁王を猶子とし、その挙兵の折には背後で支援するなど、平家追討に果たした役割は大きいとされる。建暦元年(1211)六月二十六日、七十五歳で崩御。遺領は猶子の春華門院が伝領した。
定家の母は八条院の母美福門院に仕え、ついで八条院にも仕えた。定家もまた若くして八条院に仕え、たびたび御所に出入りした。『拾遺愚草』には、承久元年(1219)六月、「故女院」すなわち八条院の命日に蓮華心院に参った定家が、かつて女院に仕えた女房たちに贈った歌(2680~2683)、及び女房の返歌(〔2684~2687〕)を収める。

秀能 ひでよし(ひでとう) 元暦元年(1184)~仁治元年(1240) 法号:如願

藤原氏秀郷流。河内守秀宗の子。平氏出身の父は、藤原秀忠(魚名末流、秀郷の裔)の跡を継いで藤原氏を名乗ったという(尊卑分脈)。母は伊賀守源光基女。承久の乱の際大将軍となった秀康は同母兄。子には左兵衛尉秀範(承久の乱で戦死)、左衛門尉能茂(猶子。後鳥羽院の寵童)ほかがいる。初め源通親に伺候し、十六歳の時後鳥羽院の北面の武士に召され、左兵衛尉・左衛門尉・河内守などを経て、検非違使大夫尉・出羽守に至る。歌人としても後鳥羽院に取り立てられ、建仁元年(1201)、十八歳の時から院歌壇で活躍を始め、同年和歌所寄人に加えられる。歌人では特に雅経・家隆と親交があった。承久三年(1221)、承久の乱の際には官軍の大将となったが、敗れて熊野で出家、如願を号した。貞永元年(1232)秋、隠岐の院を慕って西国に下る(如願法師集)。嘉禎二年(1236)には院主催の『遠島歌合』に召されて歌を献上した。仁治元年(1240)五月二十一日、没。五十七歳。家集『如願法師集』は後世の編集とされる。「秀能法師身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊の外にみばえするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中にも、さしのびたる物どもありき。しかるを近年定家無下の歌のよし申すよしきこゆ」(後鳥羽院御口伝)。『拾遺愚草』には秀能勧進の五首中四首が収録されている(2059番歌ほか)。

広幡御息所 ひろはたのみやすんどころ 生没年未詳 実名:源計子

宇多源氏。広幡中納言源庶明の女。村上天皇の女御となり、理子内親王・盛子内親王を生む。梨壺の五人による万葉集訓読は計子の発意によるという。勅撰集入集歌は拾遺集の二首のみ。『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2774)。

ま行

雅経 まさつね 嘉応二年(1170)~承久三(1221)

藤原北家。飛鳥井流始祖。関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅女。子に教雅・教定ほかがいる。雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井蹴鞠の祖でもある。
少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月十一日、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元女を妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月十五日、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。建仁元年(1201)正月二十九日、右少将に任ぜられる(兼越前介)。建永元年(1206)正月六日、従四位下に昇り、同月十三日、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月九日、左中将。建保二年(1214)正月五日、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月二十八日、右兵衛督。建保六年(1218)正月五日、従三位。承久二年(1220)十二月十八日、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。
後鳥羽院歌壇で活躍し、和歌所寄人となり、新古今集撰者の一人に加えられた。順徳天皇主催の内裏歌合などにも常連として名を列ねる。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。
『拾遺愚草』には「まさつねの中将」「二条中将」「右兵衛督」などと称され、度々祝歌の贈答をしている(2393、2396、2397、2398、2405、2406、2408)。建仁二年(1202)七月、寂蓮が亡くなった際にも歌の贈答がある(2679)。また2068番歌の詞書の「藤少将」も雅経である。
新古今集初出。家集『明日香井和歌集』、著書『蹴鞠略記』などがある。

道家 みちいえ 建久四(1193)~建長四(1252) 号:光明峯寺殿

藤原(九条)家。後京極摂政良経の長男。母は一条能保女(源頼朝の姪)。西園寺公経女の綸子を妻とする。内大臣基家・順徳天皇后立子の兄。教実・二条良実・一条実経・鎌倉四代将軍頼経・藻壁門院竴子(後堀河天皇中宮)・仁子(近衛兼経室)ほかの父。
祖父兼実のもとで育ち、八歳の時母を亡くす。土御門天皇の建仁三年(1203)二月十三日、十三歳で元服、正五位下に叙される。侍従・左中将を歴任し、元久二年(1205)正月十九日、従三位。同年三月九日、権中納言。建永元年(1206)三月七日、父が急逝し、九条家を継ぐ。同年六月十六日には左大将を兼任し、承元二年(1208)七月九日、権大納言に進む。順徳天皇の建暦二年(1212)六月二十九日、内大臣。建保三年(1215)十二月十日、右大臣に転ず。同六年二月二十六日、左大将を辞任。同年十一月、皇太子傅を兼ね、十二月二日、左大臣に転ず。承久元年(1219)六月、暗殺された源実朝の後継将軍として第三子頼経を鎌倉に下向させる。同三年四月二十日、仲恭天皇(母は道家の同母妹立子)の践祚に伴い、摂政氏長者となる。同年、承久の乱が起こり、仲恭天皇が廃されると共に、道家も摂政を止められたが、頼経が正式に征夷大将軍となった後の安貞二年(1228)十二月二十四日には後堀河天皇の関白に任ぜられた。寛喜三年(1231)七月五日、関白を子の教実に譲り、従一位に進む(極位)。その後も「大殿」として実権を握り続けた。貞永元年(1232)十月四日、娘の藻壁門院所生の四条天皇が践祚し、道家は天皇の外祖父となる。嘉禎元年(1235)三月二十八日、教実が二十六歳の若さで夭折したため、摂政に還任。同三年(1237)三月十日、摂政を聟の近衛兼経に譲る。翌暦仁元年(1238)四月、出家。法名行慧。仁治二年(1241)十二月、故教実の女である彦子(のちの宣仁門院)を入内させて四条天皇の女御としたが、翌三年正月九日、天皇は十二歳で夭折。後継天皇には幕府の意向により土御門院皇子邦仁王が立ち(後嵯峨天皇)、道家は外祖父の地位を失った。寛元四年(1246)には名越光時の隠謀に関し幕府より嫌疑をかけられ、関東申次の地位を失う。建長三年(1251)、再び幕府転覆の陰謀の嫌疑をかけられ、翌四年(1252)二月二十一日、失意のうちに東山光明峯寺で薨じた。六十歳。
祖父以来の九条家歌壇を引き継ぎ、建保三年(1215)九月の『内大臣家百首』、同五年九月の『右大臣家歌合』などを主催した。自らも歌を能くし、建保四年(1216)の『院百首』、貞永元年(1232)の『洞院摂政家百首』などに出詠。新勅撰集撰進には企画者として大きな役割を果たした。新勅撰集初出。『道家詠草百首』として伝わる歌集は、建保四年の後鳥羽院百首歌である。日記に『玉蕊』がある。
『拾遺愚草』には、承久三年(1221)三月、「左大臣殿」として蟄居中の定家に八重桜を賜う際に贈った歌(〔2082〕)、承元四年(1210)三月七日、良経の一周忌に「左大将殿へ」として定家より贈られた歌への返歌(〔2678〕)を載せる。「右大臣家六首哥合」(2298ほか)の「右大臣」、「貞永元年七月大殿哥合」(2469ほか)の「大殿」も道家を指す。

通親 みちちか 久安五(1149)~建仁二(1202) 号:土御門内大臣・源博陸

村上源氏。内大臣久我雅通の長男。母は藤原行兼女で美福門院の女房だった人。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。
保元三年(1158)八月五日、従五位下に叙される。右近衛権少将・加賀介などを歴任し、仁安三年(1168)二月十九日、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。承安元年(1171)正月十八日、右近衛権中将。治承三年(1179)正月、蔵人頭に補され、頭中将と称される。同四年正月二十八日、参議に任ぜられ、左近権中将に遷る(宰相中将と称される)。養和元年(1181)正月五日、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御した。政治の実権が後白河院に移ると、以後院のもとで公事に精励する。寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、院御所での議定に列し、同年八月、後鳥羽天皇を擁立した。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼女)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした(のち後鳥羽院に入内する)。文治元年(1185)正月二十日、権中納言に昇進。同二年三月十二日、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任し、この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月二十三日、従二位。同五年正月七日、正二位(極官)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補されると、以後丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。建久元年(1190)七月十七日、中納言に転ず。同三年三月十三日、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月十日、権大納言に昇る。この年、養女の在子が皇子を出産した(のちの土御門天皇)。翌年の建久七年(1196)十一月には任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)正月十一日、外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握した。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。正治元年(1199)正月二十日、右近衛大将を兼ねる。同年六月二十二日、内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
和歌には若い頃から熱心であったが、ことに内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果した。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の『新宮撰歌合』、同年六月の『千五百番歌合』に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれたが、新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去した。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下された。著書に『高倉院厳島御幸記』『高倉院升遐記』などがある。千載集初出。
『拾遺愚草』には「土御門内大臣」と称され、通親が宰相中将であった元暦元年(1184)に詠ませた五首歌(2097ほか)、建仁元年(1201)の『通親亭影供歌合』に出詠した春題六首(2039ほか)を収める。

通具 みちとも 承安元(1171)~安貞元(1227) 号:堀川大納言

村上源氏。内大臣土御門通親の二男。通光・道元の異母兄。俊成卿女を妻とし、具定と一女を儲けたが、正治元年(1199)頃、幼帝土御門の乳母按察局を妻に迎え、まもなく俊成卿女とは別居したらしい。
元暦元年(1184)十一月十七日、叙爵。右少将・左中弁を経て、正治二年(1200)三月六日、左中将・蔵人頭となり、頭中将と称される。建仁元年(1201)八月十九日、参議。さらに権中納言・権大納言を経て、貞応元年(1222)八月十三日、大納言に至る。安貞元年(1227)九月二日、五十七歳で薨ず。正二位。
父通親・後鳥羽院主催の歌会・歌合で活躍する。正治二年(1200)冬、内裏で人々に歌を詠ませた時、定家の献った歌が『拾遺愚草』に収められている(2339)。建仁元年(1201)、和歌所寄人に補され、さらに新古今集撰者に任ぜられた。新古今集初出。

や行

猷円 ゆうえん 永暦二(1161)~貞永元(1232)

藤原北家長良流。長門守為経(寂超)の孫。右馬権頭隆信の男。定家の母の孫にあたり、定家にとっては異父兄の子すなわち甥にあたる。
園城寺長吏。法印。新古今集初出歌人。建保三年(1215)、九条道家主催『光明峰寺入道摂政家百首』(『拾遺愚草』には「内大臣家百首」)に詠進(明月記)。貞永元年(1232)十月二十五日没。
定家とは親しく、『明月記』にはたびたび「来訪」「来談」の記事が見える。『拾遺愚草』には定家に勧めて法華経の「普賢品」の歌を詠ませたとある(下2753)。

行平 ゆきひら 弘仁九(818)~寛平五(893) 号:在納言

平城天皇の孫。阿保親王の第二子。業平の兄。九歳の時臣籍に下り、在原姓を賜る。仁明天皇の承和七年(840)、蔵人に補せられる。侍従・右兵衛佐・右近少将などを経て、文徳天皇代の斉衡二年(855)正月七日、従四位下に昇叙される。同日、因幡守を拝命し、任国に赴任する。因幡で二年ほどを過ごして帰京。斉衡四年(857)、兵部大輔。以後中務大輔・左馬頭・播磨守などを経て、清和天皇の貞観二年(860)、内匠頭。さらに左京大夫・信濃守・大蔵大輔・左兵衛督などを歴任し、同十二年正月、参議。同十四年八月、蔵人頭に補せられる。同十五年、従三位に昇り、大宰権帥を拝して筑紫に赴く。陽成天皇の元慶元年(877)、治部卿を兼ねる。同六年、中納言に昇進。光孝天皇の元慶八年三月、民部卿を兼ねる。九年二月、按察使を兼ねる。仁和三年(887)四月、七十歳にして致仕。最終官位は正三位。民政に手腕を発揮した有能な官吏であり、また関白藤原基経としばしば対立した硬骨の政治家であった。
元慶八年(884)~仁和三年(887)頃、自邸で歌合「民部卿行平歌合」(在民部卿家歌合)を主催。これは現存最古の歌合である。歌壇の中心的存在として活躍し、また一門の学問所として奨学院を創設した。古今集初出。
『拾遺愚草』の「卒塔婆供養」の歌に名が見える(2775)。

良輔 よしすけ 文治元(1185)~建保六(1218)

藤原(九条)家。関白兼実の四男。母は八条院女房三位局(高階盛章女)。良経の異母弟。慈円の甥。建久五年(1194)四月二十三日、元服し正五位下に初叙される。侍従・右近衛少将・同中将等を経て、正治二年(1200)十月二十六日、従三位に叙せられる。建仁三年(1203)正月十三日、権中納言。元久二年(1205)三月九日、権大納言。承元二年(1208)七月九日、内大臣。承元三年(1209)四月十日、右大臣に転じ、さらに建暦元年(1211)十月四日、左大臣に昇進したが、建保六年(1218)十一月十一日、疱瘡のため三十四歳で急逝した。極位は従一位。
漢学に秀で、元久二年(1205)の『元久詩歌合』に漢詩を出詠した。『拾遺愚草員外』収録の建保六年(1218)作『韻字四季歌』(3398~3461)の後書に「詩申請左相府御点」とあり、死去直前、定家より自作の漢詩句の評価を仰がれたと知れる。

良経 よしつね 嘉応元(1169)~建永元(1206) 通称:後京極殿

藤原(九条)家。関白兼実の二男。母は中宮亮藤原季行女。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保女、松殿基房女などを妻とした。子には道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
高倉天皇の治承三年(1179)四月十七日、十一歳で元服し、従五位上に叙される。同年八月二十六日、禁色昇殿。侍従・右少将を経て、安徳天皇の寿永元年(1182)十一月十七日、左中将。後鳥羽天皇の元暦二年(1185)正月六日、従三位に叙され公卿に列す。文治四年(1188)正月六日、正二位。この年二月二十日、兄良通が死去し、代わって九条家の跡取りとなる。同五年七月十日、権大納言となり、十二月三十日には左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月十日、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年十一月二十五日、源通親の策謀により父兼実が関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月十九日、左大将罷免。しかし同十年六月二十二日には左大臣に昇進し、同月二十三日には左大将に復した。譲位して院政を始めた後鳥羽院の信任を得、建仁二年(1202)十一月二十七日内覧宣旨、十二月二十五日には摂政となった。同四年正月五日、従一位に昇り(極位)、十二月十四日、太政大臣に任ぜられる。元久二年(1205)四月二十七日、太政大臣を辞す(摂政は留任)。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
幼少期から学才をあらわし、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者も務めた。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。
定家は二十五歳になる文治五年(1189)頃から九条家の家司として仕え、和歌を通じて良経との親交を深めた。『拾遺愚草』には、建久四年(1193)冬、服喪中の定家に良経が贈った二つの五首歌(〔2368〕以下、〔2629〕以下)を収める。良経追悼の歌は非常に多く、定家と家隆の贈答二十首(2635~2645)、2646番歌以下の二十八首がある。また2674番歌や2678番歌も良経を追悼した歌である。他に「左大将」「内大臣」「左大臣」「摂政殿」と称し歌会・歌合の主催者としてその名が頻出する。


公開日:2010年11月27日
最終更新日:平成2011年06月04日
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