足利義昭 あしかがよしあき 天文六〜慶長二(1537-1597) 法名:覚慶 法号:昌山

室町幕府の第十五代将軍。第十二代将軍義晴の子。母は関白近衛尚通の娘。
若くして出家し、覚慶と号して奈良興福寺に住す。永禄八年(1565)、兄の第十三代将軍義輝が松永久秀らに殺された際、興福寺一条院に幽閉されたが、細川藤孝(細川幽斎)によって救出され、近江の和田秀盛の許に逃れた。翌年還俗し、義秋(のち義昭)と称する。永禄十年(1567)、越前の朝倉義景を頼って一乗谷に赴くものの、義景は幕府恢復の要請に腰をあげず、同十一年(1568)織田信長に迎えられて美濃に入り、同年上洛、征夷大将軍に擁立された。のち信長と確執を生じ、武田信玄・朝倉・浅井・石山本願寺などと反信長勢力を結成、元亀四年(1573)、挙兵して敗れた。京都を追放され、官位を剥奪されて、ここに室町幕府は滅亡。その後諸国を流浪し、天正四年(1576)備後国鞆津に亡命、毛利元就を頼ったが、かえって信長の中国攻略を招いた。本能寺の変後、上洛を夢見るも、羽柴秀吉の天下統一によって幕府再興の望みは絶たれた。天正十五年(1587)、秀吉に謁して一万石の捨扶持を給される。翌年出家して昌山と号し、大坂で没した。

足利義昭木像 京都市北区 等持院

 

もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば(戦国時代和歌集)

【通釈】一緒に月も忘れずにいてくれ。糸桜が長く枝垂れるように、長い年月にわたる契りだと思うなら。

【語釈】◇糸桜 枝垂れ桜に同じ。「緒」「ながき」は糸の縁語。◇契り 約束。朝倉義景との同盟を暗に示す。

【補記】典拠は『続応仁後記』巻九。永禄十一年(1568)三月下旬、朝倉氏居城一乗谷の南陽寺で糸桜を観る会が催された時の詠。義景は義昭に和するように「君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき今日の言の葉」と詠んでいる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日