藤原宇合 ふじわらのうまかい 生年未詳〜天平九年(737) 略伝

不比等の三男。藤原式家の祖。母は蘇我連子の女娼子。初め名を馬養に作ったが、渡唐後宇合に改める。同母兄に武智麻呂房前、異母弟に麻呂がいる。子に広嗣・宿奈麻呂・百川らがいる。
慶雲三年(706)九月〜十月の文武天皇難波行幸に従駕し、歌を詠んだことが万葉集巻一に見える。『懐風藻』等記載の年齢によればこの年十三歳。霊亀二年(716)、遣唐使の副使に任命され、翌年出航。養老二年(718)、帰国入京。翌年正五位上に進み、常陸国守に任ぜられる。この時高橋虫麻呂を部下として『常陸国風土記』編述に関与したとの説がある。同年、安房・上総・下総の按察使を兼ねる。養老五年、長屋王の右大臣就任と同時に一挙に四階昇進して正四位上。同年、兄武智麻呂に代わり式部卿に就任。神亀元年(724)四月、持節大将軍となり陸奥へ赴く。同年十一月、来帰。翌年、蝦夷征討の功により従三位勲二等。神亀三年、漢詩「棗賦」を奏上(『経国集』所載)。同年十月、知造難波宮事。同六年、六衛の兵を率いて長屋王邸を囲む。天平三年(731)、参議となる。同年十一月、畿内副惣官。同四年八月、西海道節度使。同六年、正三位に昇る。天平九年(737)八月、薨去(疫病死か)。時に参議式部卿兼大宰帥正三位。漢詩にすぐれ、「翰墨の宗たり。集二巻あり」(公卿補任)。万葉には六首載る。

大行天皇の難波宮に幸(いでま)す時の歌

玉藻刈る沖辺は榜がじしきたへの枕のほとり忘れかねつも(万1-71)

右の一首は、式部卿藤原宇合。

【通釈】海女たちが玉藻を刈る沖のあたりは漕ぐまい。昨夜旅の宿で枕辺にいた人のことが忘れられないから。

【補記】文武天皇の難波行幸は慶雲三年(706)で、宇合はこの時わずか十三歳。旅の宿であてがわれた女への慕情を初々しく詠んでいる(宇合の年齢については略伝を参照)。

式部卿藤原宇合卿の、難波京を改め造らしめらゆる時に作る歌一首

昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり(万3-312)

【通釈】昔こそ「難波田舎」と言われたろうが、今は都が引き移って、すっかり都らしくなったのだった。

【補記】題詞の「改め造らしめ」の主語は聖武天皇。宇合が知造難波宮事に任命されたのは神亀三年(726)十月。「都引き」は聖武天皇の行幸を、都自体が移ってきたように言いなしたもの。

藤原宇合卿の歌

我が背子をいつぞ今かと待つなへに(おも)やは見えむ秋の風吹く(万8-1535)

【通釈】愛しい人はいつ来るだろう、もうすぐかと待っているうち、もうお顔が見えるのだろうか、秋の風が吹いている。

【補記】秋雑歌。『萬葉集略解』の説くとおり七夕の歌に違いなく、織女の立場で詠んだものであろう。

宇合卿の歌 (二首)

(あかとき)(いめ)に見えつつ梶島の磯越す波のしきてし思ほゆ(万9-1729)

【通釈】暁の夢に繰り返し現れ、梶島の磯を越えて寄せる波のようにしきりとあの人のことが偲ばれる。

【補記】巻九雑歌に分類されている。旅の歌か、宴で詠まれた歌か。「梶島」は所在不詳。「梶島の磯越す波の」は「しきて」(何度も繰り返し)を導く序。

 

山科の石田(いはた)の小野の柞原(ははそはら)見つつや君が山道越ゆらむ(万9-1730)

【通釈】山科の石田の小野の雑木林を見ながら、あなたは今頃山道を越えてゆくのだろうか。

【語釈】◇石田の小野 京都市伏見区の石田から日野にかけての地。奈良から近江へ向かう近江路のほとり。歌枕として平安歌人によっても多く詠まれた。◇柞原 「柞(ははそ)」はクヌギ・コナラなどの類。「柞原」はそれらの木々からなる林。

【補記】これも雑歌。「君」は同性の友人か。因みに宇合には石田の杜(今の天穂日命神社、または萱尾神社かという)を詠んだ歌がある。「山科の石田の杜に手向せばけだし我妹に直に逢はむかも」。

【他出】五代集歌枕、新古今集、定家十体(有一節様)、定家八代抄、歌枕名寄、夫木和歌抄

【主な派生歌】
時雨するいはたの小野の柞原朝な朝なに色かはりゆく(大江匡房[玉葉])
秋といへばいはたの小野のははそ原時雨もまたず紅葉しにけり(覚盛[千載])
秋ぞかしいはたのをのの言はずとも柞が原にもみぢやはせぬ(藤原有家)
秋ふかきいはたのをののははそ原した葉は草の露やそむらん(藤原家隆)
柞ちるいはたのをのの木枯しに山ぢしぐれてかかる叢雲(宗尊親王[続古今])
うづらなくいはたの小野の旅人や月まちいでて山路こゆらん(慶運)
誰にかもいはたのをのの秋の月ひとりはあかぬ山路越え行く(三条西実隆)


更新日:平成15年11月08日
最終更新日:平成22年04月14日