登蓮 とうれん 生没年未詳

出自等未詳。俊恵の歌林苑の会衆の一人で、数寄人としての逸話を『無名抄』に残している(この話は『徒然草』にも引用された。下記参照)。仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛朝臣家歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに出詠。新古今集・続古今集所載歌によれば、筑紫へ下ったことがあり、この時俊恵・源頼政・祐盛法師が悲別の歌を詠んでいる。
家集『蛍雪集』があったらしいが、散逸した。伝存する『登蓮法師集』は『中古六歌仙』収録の登蓮作歌を分離独立させたもの。詞花集初出。勅撰入集十九首。中古六歌仙。『歌仙落書』にも歌仙として八首の歌を採られており、「風体たけ高くきらきらしくまた面白くも侍るなるべし」と賞讃されている。

―『徒然草』一八八段より―
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺(わたのべ)の聖(ひじり)、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷(まか)らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下(むげ)の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゆしく、有難う覚ゆれ。「敏(と)き時は、則ち功あり」とぞ、論語と云ふ文(ふみ)にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

桜花散りなむ後のおもかげに朝ゐる雲のたたむとすらむ(登蓮法師集)

【通釈】桜の花が散ってしまったあと思い出して偲ぶようにと、朝の雲がいま湧き上がろうとしているのだろう。

【語釈】◇朝ゐる雲 朝、山に留まっている雲。「ゐる」は「たつ」の反意語で、じっと動かずにいる意。

【補記】雲にも情があるとして、桜が散りそうな頃、花の代りに雲が山に立ちのぼったと見た。

【他出】玄玉集、歌仙落書、中古六歌仙

長寛二年白河殿歌合、草花

藤袴ねざめの床にかをりけり夢路ばかりと思ひしものを(夫木抄)

【通釈】深夜ふと目覚めると、寝床にフジバカマの匂いが漂っていた。夢の中でのことだとばかり思ってたのに。

【補記】目が覚めて、花の香りが現実だったことに驚く。

別の心をよめる

帰りこむほどをや人に契らまし偲ばれぬべき我が身なりせば(新古882)

【通釈】もし私が慕われるような者でしたら、帰って来るのはいつ頃と、あなたにお約束しましょうが…。

【補記】離れ離れになっても自分を忘れてほしくないとの心を婉曲に述べている。治承三年(1179)の成立とされる治承三十六人歌合に見え、詞書「人の国へまかりけるに、あひしれりける人餞して歌よみけるに」とある。地方へ下る時に餞の宴で詠まれた歌。『定家十体』に有一節様の例歌として引かれている。

明石に人々まかりて月をみて歌よみけるに

故郷を思ひやりつつながむれば心ひとつにくもる月かげ(新続古今925)

【通釈】なつかしい都に思いを馳せながら夜空を眺めていると、自分の思いひとつで月が曇ってしまうのだ。

【語釈】◇くもる月かげ 月が「くもる」のは言うまでもなく溢れ出た涙のため。

【補記】明石で月を見て詠んだという歌。明石は今の兵庫県明石市。畿内とは須磨の関を隔て、山陽道・南海道へ向かうための駅があり、古来旅情深い地とされた。

【他出】続詞花集、歌仙落書、治承三十六人歌合、登蓮法師集、中古六歌仙
(結句「くもる月かな」とする本もある。)

旅の心を

みさごゐる磯の松が根まくらにて汐風寒み明かしつるかな(続後撰1327)

【通釈】雎鳩がとまっている磯の松、その根元を枕にして、潮風が寒くて眠れずに夜を明かしてしまった。

【語釈】◇みさご 鳶に似た猛禽類。

【補記】『続詞花集』の詞書は「明石にこれかれまかりてあそびける時、海辺旅宿の心をよみける」。前歌と同じ時の作か。

【他出】続詞花集、歌仙落書、中古六歌仙

君も憂し逢はずは我も忘れなでつれなき人ぞふたりなりける(中古六歌仙)

【通釈】あなたの方も思いやりがない。それで逢ってくれないのだ。逢えなければ、私の方も、いつまでも忘れることができない。結局、思うに任せない人が二人いるということだ。

【語釈】◇君も憂し 「うし」は、相手の態度が冷淡で、自分につらい思いをさせる、ということ。◇つれなき人 期待に反する態度を見せる人、思うままにならない人。作者が自分をも「つれなき人」と言うのは、自分が自分にとって思うに任せない、という意味で言っているのであろう。

【補記】『登蓮法師集』にも題「恋」とある。

年ごろ修行にまかり(あり)きけるが、帰りまうで来て、月前述懐といへる心をよめる

もろともに見し人いかになりにけむ月は昔にかはらざりけり(千載995)

【通釈】ともに修行に励み、一緒に月を見た人は、いまどうしてしまっただろうか。月だけは、昔とちっとも変わっていないことよ。

【補記】変わらぬ月に寄せて、修行した仲間たちの消息を思い、無事にあることを願う。

【参考】菅原文時「和漢朗詠集・懐旧」
南楼嘲月之人 月与秋期而身何去(南楼に月をあざけつし人、月は秋と期すれども身は何れにか去れる。「嘲」を「翫」とする本もある)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月14日