新納忠元 にいろただもと 大永六〜慶長一五(1526?-1610) 号:拙斎

薩摩島津家の重臣。祐久の子。忠堯の父。
天文七年(1538)、島津貴久に謁し、以後、義久・義弘・家久に仕え、数多くの合戦に功をたてる。天正二年(1574)、肝付・伊地知氏を帰順させる。同八年以後、肥後攻略の将として活躍したが、同十年には肥前の戦で子の忠堯を失う不幸に遭った。豊臣秀吉の九州進攻の際、当主義久の和議の方針に反対して抗戦を主張したが、結局義久の説得により降伏した。
「鬼武蔵」と呼ばれてその武勇を怖れられる一方、学芸にも長じ、和歌・連歌を好んだ。陣中、火縄の明りで古今集を読んだとの逸話が伝わる。また細川幽斎に和歌の指導を請うた。
川田順編『戦国時代和歌集』に七首収録。以下にはそのうち二首を抄した。

 

晴れ曇る光は空にさだまらで夕日をわたるむら時雨かな(戦国時代和歌集)

【通釈】晴れたり曇ったりと天気はさだまらず、時には夕日のあたる所を降りすぎてゆく一団の時雨であるよ。

【補記】川田順『戦国時代和歌集』によれば出典は伊地知季安著『新納忠元勲功記』。三十首の和歌の添削を幽斎に乞い、そのうち賞讃されたのがこの一首という。

 

さぞな春つれなき老いと思ふらむ今年も花ののちに残れば(戦国時代和歌集)

【通釈】春はさぞかし私を無情な老人と思っているだろう。今年もまた、花の散った後まで生き残ったので。

【補記】同じく出典は『新納忠元勲功記』。慶長十四年(1609)春、妻が病没し、その翌年三月に詠んだ歌という。「つれなき」は、亡き妻に対して「つれない」ことを意味すると共に、「連れなき」を掛けて、「妻に先立たれた」の意を響かせる。「花ののちに残れば」は、妻に死に遅れたことを含意する。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日