孝謙天皇 こうけんてんのう 養老二〜神護景雲四(718-770) 略伝

聖武天皇の皇女。母は藤原光明子。法諱は法基尼。高野姫・高野天皇とも称された。
同母弟の基王死後の天平十年(738)年、二十一歳で異例の女性皇太子となる。天平勝宝元年(749)、父帝の譲位を受けて即位するが、行政の実権は皇太后と藤原仲麻呂が掌握した。天平宝字二年(758)、母への孝養を理由に譲位し、大炊王が即位した(淳仁天皇)。同四年、母皇太后が崩御し、翌年保良宮で道鏡の看病を受けたのを境に、大炊王・仲麻呂らとの対立を深め、同六年、出家を宣言すると同時に、政務を二分し、国家の大事・賞罰は自らが行うと意思表示する。同八年、藤原仲麻呂の乱を鎮圧した後、藤原豊成を右大臣に再任し、道鏡を大臣禅師に任命して、自らは再祚した(称徳天皇)。淳仁天皇を淡路に幽閉し、翌年死に追いやる。翌年十月、弓削仮宮において道鏡を太政大臣禅師に任命し、さらに天平神護元年(765)十月には法王に任ずる。神護景雲三年(769)、宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位に就けるべきことが奏上され、和気清麻呂を召して公式に宇佐八幡の神託を伺うことを命じたが、帰京した清麻呂の神託奏上により道鏡を皇位に就ける計画は挫折した。翌年八月、西宮の寝殿に崩御。五十三歳。大和国添下郡佐貴郷の高野山陵に葬られた。
万葉集に二首の歌(19-4264・4265)を残す。また19-4268は孝謙天皇・光明皇太后いずれの御製か不明。

従四位上高麗(こま)朝臣福信(ふくしん)(みことのり)して難波に遣はし、酒肴(しゆかう)を入唐使藤原朝臣清河等に賜ふ御歌一首 并せて短歌

そらみつ 大和の国は 水の()は (つち)ゆくごとく (ふな)()は (とこ)に居るごと 大神(おほかみ)の (いは)へる国ぞ ()つの船 (ふな)()並べ (たひ)らけく 早渡り来て 返り(こと) (まを)さむ日に 相飲まむ()ぞ この豊御酒(とよみき)(万19-4264)

反歌

四つの船早帰り()としらかつく()が裳の裾に(いは)ひて待たむ(万19-4265)

右、勅使を発遣し、また酒を賜ふ。楽宴(らくえん)の日月、未だ詳審(つばひ)らかにすることを得ず。

【通釈】[長歌] 日本の国は、水の上は地上を行くように、船の上は床の上にいるように、聖なる神がどっしりと護りたまう国であるぞ。四隻の遣唐使船が、船の舳先を並べ、つつがなく早く唐国に渡り、帰って来て、復命を奏上する――その日に共に飲む酒であるぞ、この美酒は。
[反歌] 四つの船よ、早く帰って来るようにと、しらかを付けたこの我が裳の裾に祈りをこめて、待っていよう。

【語釈】[題詞]◇高麗朝臣福信 高麗より渡来した福徳の孫。天平勝宝二年、高麗朝臣賜姓。聖武天皇の寵臣の一人であった。◇藤原朝臣清河 房前の子。天平勝宝二年(750)、遣唐使となり入唐。
[長歌]◇そらみつ 「大和」の枕詞
[反歌]◇しらか 麻や楮(こうぞ)の類を細かく裂いて白髪のようにして幣帛としたもの。

【補記】天平勝宝四年(752)四月に出航した遣唐使ら(大使は藤原清河)に賜わった歌。


更新日:平成15年12月28日
最終更新日:平成21年04月18日